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【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】「多様性神話」にとりつかれた日本社会

ハロウィーンで思い思いの仮装を楽しむ若者ら。多様性社会の前提は相手の存在を認めることだ=平成30年10月、東京都渋谷区(納冨康撮影)
ハロウィーンで思い思いの仮装を楽しむ若者ら。多様性社会の前提は相手の存在を認めることだ=平成30年10月、東京都渋谷区(納冨康撮影)

「ちがう」ことで傷つかない社会

 「ダイバーシティー」という言葉を明確に意識したのはいまから8年前だった。東京都江東区青海(お台場の一角)に、複合商業施設とオフィスビルを合体した「ダイバーシティ東京」がオープンしたのがきっかけだ。台場と街と多様性を掛け合わせたネーミングであろうが、当時の私はこれを「ダイバー+シティ」、つまり「潜水士+街」と受け止めてしまったのだ。それではこの言葉を使ったどんな文脈も読み解けるはずがない。英和辞典を引いてこの言葉が「多様性」なる意味を持つことを初めて知った。時代の流れに鈍感であり不勉強の極みである。

 新自由主義を推進した小泉純一郎政権時代の「自己責任」、古くは高度経済成長期の田中角栄政権時代の「列島改造」など、どの時代にも切り札的な言葉がある。令和2年のいま、まさに「ダイバーシティー」がその言葉になっているように感じられる。誰もが童謡詩人、金子みすゞの詩の一節《鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい》とともに口にするようになった。「みんなとちがう」ことで誰も傷つくことのない社会を目指すのは私も大賛成だ。

 政治家、企業経営者、人権活動家たちは、ことのほかこの言葉がお気に入りのようだ。政治家の発言をいくつか挙げよう。

 立憲民主党常任顧問の岡田克也衆院議員は同党と国民民主党が合流した9月15日のツイッターでこうつぶやいた。《新たな立憲民主党スタート。前回総選挙直前の執行部の誤った判断により分裂して3年。ようやく大きなかたまりができた。党内に多様性があることはすばらしいこと。それが強みになる政党を目指したい》

 共産党の志位和夫委員長は昨年の参院選で、安倍晋三首相(当時)が野党の政策不一致を批判していることについて《余計なお世話だ》《考え方が違うのは当たり前。別の政党なんだから》と主張したうえでこう訴えた。《多様性の統一、ユニティー・イン・ダイバーシティーが一番強い。安倍さんは多様性ゼロじゃないですか》

 国民民主党の玉木雄一郎代表は、分裂をへて同党が少数で再出発するさいにこう強調した。

 《我が党の最大の強みは多様性です。特に、15人の国会議員のうち5人が女性です》

 野党ばかりではない。先だって行われた衆院本会議各党代表質問で、日本学術会議の新会員候補6人の任命を見送った問題について菅義偉首相はこんな説明をした。

 《民間出身者や若手が少なく、出身や大学にも偏りがみられることも踏まえて、多様性が確保されることを念頭に、任命権者として判断を行った》

 本題からは外れるが、少しだけ口を挟みたい。立憲民主党は希望の党への合流を期待しながらも排除された人々が、理念などではなく選挙のため集まってできた党だろう。今年9月15日には、いったんたもとを分かった国民民主党の人々と再び合流した。そんな状態を多様性と表現するのは勝手だが、それが本当に同党の強さの母胎となるのだろうか。お手並み拝見だ。共産党が組織原則にしている「民主集中制」が本当に党員の多様性を担保できるのか。その本質は上意下達だと思うのだが。玉木代表は国会議員15人中5人が女性という点を強調して同党が多様性の党であるかのごとく主張するが、あまりに短絡的だろう。そして菅首相。本気で多様性を重視するのであれば、お膝元の東大に偏った霞が関の官僚組織を問題にしなければならないだろう。

 それはともかく、与野党を問わず「多様性神話」にとりつかれている状況だ。多様性こそが強さや公正の母胎となる、と本気で信じているのか? いや、いまの時代にもっとも受け入れられやすく、どことなく説得力をもっているかのように感じられるから政治家はこの言葉を乱用しているように思われる。

本質的欠陥が可能性に通じる

 このところの日本の社会は、「多様性ファシズム」に傾斜しつつあるのではないだろうか。多様性を錦の御旗に社会改革を推進する動きにブレーキをかけようとする言説は、袋だたきにあってしまう。一例を挙げるなら、LGBT(性的少数者)の人々への「過度な支援」に疑問を呈した論文で激しいバッシングを浴びた自民党の杉田水脈衆院議員だ。彼女の論文には言葉不足、デリカシーの欠落という問題があるのは私も認めるが、時流に乗った多様性信者たちは、「LGBTには生産性がない」という言葉を切り取って、彼女の言説だけでなく人格までを激しく非難した。

 多様性を認める社会の実現には、構成員が自分と異なる意見や価値観を排除することなく、受け入れないまでも、「私は認めたくはないが、そんな考え方、生き方もあるのか」程度に受け止める保留の姿勢が大前提となるはずだ。つまり、絶対に好きになれないと思われる相手であっても、その存在は認めるという強い覚悟が不可欠なのだ。それを前提にしないままで多様性を認める社会を追求すれば、分断と混乱が生じるだけではなかろうか。

 わが国の将来を考えるとき、もっとも大切なのは小学校の教育だろう。「みんなと仲良く」なんて幻想に過ぎない。大人なら誰もが知っていることだ。できもしないことを子供に押しつける愚は避け、「嫌いな人間がいるのが普通。でもその存在は絶対に認めなければならない」という教育を徹底すべきだ。

 ただし、こう付け加えることも忘れずに。モンテーニュの言葉だ。

 《実に人間くらい驚くほど空で・まちまちな・そして変りやすい・ものはない》(第1巻第1章「人さまざまの方法によって同じ結果に達すること」)

 人間は絶えず変化する存在だ。だからこそ、何かのきっかけで大嫌いな相手と心の通じ合う関係になれる可能性を秘めている。逆説的だが、人間が抱える本質的な欠陥が可能性に通じているのである。大嫌いではあってもその存在を認めていれば、いつしか劇的な関係の転換が訪れるかもしれない。それは人生において他には代えがたい幸福な体験となるだろう。構成員のそんな体験こそが、多様性を認める社会を支えてゆく。私はそう信じる。

 ※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)による。(文化部 桑原聡)

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