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終戦後の惨劇「三船遭難事件」 コロナ禍で追悼ひっそり 一方で75年を経て名乗り出る遺族も 

「三船遭難事件」の犠牲者を静かに追悼する遺族=21日、北海道留萌市の了善寺(寺田理恵撮影)
「三船遭難事件」の犠牲者を静かに追悼する遺族=21日、北海道留萌市の了善寺(寺田理恵撮影)
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 終戦の8月15日を過ぎても、戦禍に倒れた多くの民間人がいた。樺太からの引き揚げ船3隻が北海道沖の日本海でソ連の潜水艦から攻撃され、1700人以上が犠牲となった「三船遭難事件」。遺族や関係者が今年も追悼行事を行ったが、戦後75年を経て遺族は高齢化。ロシアはソ連軍の関与を公式に認めておらず、歴史を語り継ぐことが難しくなっている。(寺田理恵)

ソ連潜水艦から攻撃

 かつてニシン漁で栄えた北海道北西部沿岸。留萌(るもい)市と増毛(ましけ)町などに事件の慰霊碑はある。

 事件発生は、日本が降伏を表明してから1週間後の昭和20年8月22日だった。ソ連軍が同月9日、日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告し、南樺太へも侵攻。避難民を満載した3隻は北海道沖を航行中、ソ連の潜水艦から相次いで魚雷攻撃などを受けた。

 3隻のうち小笠原丸と泰東丸は沈没し、第二新興丸は大破しながらも留萌港に入港。犠牲者の多くが高齢者や女性、子供だった。

 事件当時、10歳だった田嶋端(ただし)さん(84)は第二新興丸に乗船して樺太から一家8人で引き揚げる途中、父親と弟と妹2人の4人を亡くした。

 「遺体がマグロのように並べられていた。1週間くらい留萌で毎日、家族を探した。遺体に掛けられたムシロを1日に何度もはがして確かめた。子供の遺体が多かった」

 生き残った祖母と母、兄の3人も結核で相次いで亡くし、1人になった。「動ける間は慰霊に来なければいけない」と話す。

「後世に伝えて」

 ソ連は、北海道の釧路と留萌を結ぶ線の北側への侵攻を計画していた。だが、公式には「国籍不明」の潜水艦による攻撃とされ、事件の遺族でつくる「樺太引揚三船遭難遺族会」はロシアに謝罪を求めてきた。

 会長を長年務めた永谷(ながや)保彦さんが3年前に88歳で亡くなって以降、後任の会長は決まっていない。

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