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【痛みを知る】 『白鯨』エイハブ船長も耐えた「幻肢痛」の対処法 森本昌宏

 「鯨の骨で作った義足ではなく、白鯨にもがれ、無くなった足が痛むのだ。この痛みは誰にも分らぬ。誰にも治せぬ」。捕鯨船の水夫をしていたメルヴィルは、その体験を元に、1851年に『白鯨』を発表した。主人公の隻脚のエイハブ船長は執拗(しつよう)に白鯨を追い続けるが、冒頭の一節はその狂気ともいえる執念が、何故(なぜ)に彼の心に宿ったのかを端的に表している。

 エイハブ船長は無くなった足の痛みに耐えながら、大海原へと船を進めたが、この痛みこそが「幻肢痛」である。幻肢痛とは、失った体の一部分があたかも存在するような“幻肢覚”とともに、その幻肢に痛みを感じる状態を指す。空間に痛みがあるように感じるのである。この痛みは四肢だけではなく、「乳癌(にゅうがん)」で失った乳房、鼻、肛門、ペニス、さらには歯などにも生じる。

 神経障害性疼痛(とうつう)のひとつであり、発症早期には、「帯状疱疹(ほうしん)後神経痛」に代表される求心路遮断痛(痛みを伝える経路が障害された結果、中枢神経系に機能変化をきたす)と同様の機序によって痛みを生じる。さらに長期間にわたり痛みを感じ続けていると、脳が痛みを記憶する状態を作り上げてしまうのだ。また、中枢神経内に残された切断前の痛みの記憶痕跡が大きな影響を与え続ける。心理的因子の関与も大きい。

 大崎善生氏の小説『ディスカスの飼い方』(幻冬社刊)のなかに、伝説のダイバー、ハイコ・ブレハについての記述がある。アマゾン川の支流に潜っていたハイコは、ある夜、右足の灼けるような痛みで飛び起きた。腐ったトマトのように腫れ上がった足、その皮膚の下で幼虫のようなものが這(は)い回っていたのだ。命の危険を感じたハイコは鎌で自らの右足首を切り落とす。その後、切断する前にあった“水虫の痒(かゆ)み”が蘇ってきたというのだ。失った足には痛みではなく痒み(幻肢掻痒=げんしそうよう=?)も生じることを示している。

 幻肢痛では、手術前と直後の痛みのコントロールが重要であることは言うまでもない。そして、痛みが発生した場合、その記憶が完成する前に、より早期から治療を開始すべきである。一般的には抗(こう)うつ薬やガバペンチノイド(リリカやタリージェ)の投与、心理療法などが行われているが、これらのみで激烈な痛みを完全に取り去ることはできない。私の施設では、持続硬膜外ブロックや脊髄刺激療法(脊髄の外側にある硬膜外腔に電極を植え込んで低周波通電を行う)によって対処している。

 170年前にこれらの治療法が用いられていたならば、エイハブ船長が白鯨を追い続けることはなかったのかもしれない。

【略歴】森本昌宏(もりもと・まさひろ) 大阪なんばクリニック本部長。平成元年、大阪医科大学大学院修了。同大講師などを経て、22年から近畿大学医学部麻酔科教授。31年4月から現職。医学博士。日本ペインクリニック学会名誉会員。 

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