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【一聞百見】「まだまだ作曲を」90歳迎える浪花のモーツァルト、キダ・タローさん

「1日40曲くらい作ってました」と笑うキダ・タローさん=大阪府豊中市(南雲都撮影)
「1日40曲くらい作ってました」と笑うキダ・タローさん=大阪府豊中市(南雲都撮影)
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 関西人には特段、説明は要らないだろう。「♪と~れと~れ、ぴ~ちぴ~ち、かに料理~」をはじめ、この人が手掛けたメロディーは関西人の脳内のみならず、DNAに染みついていると言っていい。これまでに「分からんけど、3千曲から5千曲」を世に送り出したという〝浪花のモーツァルト〟は何と今年の12月6日で卒寿(90歳)を迎える。これはぜひ、一度しっかり話を聞かねばと、取材に伺ったのだが、創作意欲に全く衰えはなかった…。

(聞き手・岡田敏一編集委員)

■人生変えたジャズの輝き

 取材はコロナ禍以前の3月上旬に行った。取材場所の大阪府豊中市内のホテルに現れたキダ・タローさんは、テレビでおなじみのにこやかな風貌と親しみやすい佇(たたず)まい。年内に90歳を迎えるとはとても思えない元気溌剌(はつらつ)さと明るさで迎えてくれた。

 今では押しも押されもせぬ超大物だが、五男一女の末っ子として生まれたこともあり、幼少期は意外にも自分が前に出ていくタイプではなかった。「はにかみ屋で引っ込み思案であまえたで、どうしようもない末っ子。食べ物も好き嫌いがあって。人見知りもするし…」

 そんなキダさんが音楽の道に入ったきっかけがアコーディオンだった。太平洋戦争真っただ中の当時、不治の病といわれた結核で亡くなった兄(長男)の遺品だった。「自宅の2階で療養していた兄が欲しがったのがアコーディオンでした。親父(おやじ)は警察官で、本格的な物を買う経済的余裕はなく、おもちゃに近いものでしたが、出てくる音は本格的でした。亡くなったとき、両親は大層悲しみ、床の間にずっと飾ってあったんです」。小学生だったキダさんは、流行していたハーモニカを吹いて遊んでいたが「アコーディオンの教読本にはハーモニカの楽譜が併記してあった」ことから、たまたま、興味本位で演奏すると「姉に褒められましてね。まあ、おだてられて始めたようなもんですわ(笑)」。

 戦時下の日本。ラジオから流れてくる歌謡曲といった大衆音楽に親しみながら、アコーディオンを楽しむごく普通の少年だったキダさんの人生を決定的に変える出来事が起きた。終戦と、それに伴って日本に流れ込んできた米国の音楽、ジャズとの出会いだ。「終戦直後、旧制中学の4年生の時だったと思います。ラジオから流れてくるジャズを初めて聞きました。今まで聞いたことのない輝きと楽しさと明るさを持っていましたね。世の中にこんな音楽があったのかと。カルチャーショックという文字が色あせるほど新鮮な驚きを受けたのをはっきり覚えています」。その驚きや感動は、単に楽曲のメロディーからではなく、音楽が持つ本質的な部分から受けたものだった。

母と写真に納まる中1のころのキダ・タローさん(本人提供)
母と写真に納まる中1のころのキダ・タローさん(本人提供)
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 「これまで日本で親しまれた海外の音楽は、イタリアの歌曲やドイツのオペラみたいなクラシック音楽。要するに、ありがたい音楽ばっかりやった。なのに、これほど人生に密着した心から楽しめる音楽があったんやと…」

 トランペット奏者のハリー・ジェイムスやカウントベイシー楽団、女性歌手ダイナ・ショア、男性歌手フランク・シナトラらのジャズ・サウンドに夢中になった。作曲家キダ・タローさんの原点は、実はここにあった。

■浪花のモーツァルト誕生

 「後にも先にも、これを超える衝撃はありませんでした」と振り返るジャズとの出合いを経て、音楽活動を本格化させたキダ・タローさん。ちょうど、周辺では第1次ギターブームが到来し、バンド活動が活発化。アコーディオンが弾けるキダさんも同級生から誘われてバンドに。「バイオリン奏者もいたので、アコーディオンとバイオリンというわけで、タンゴバンドを組むことになりました」

妻の美千代さんと。キダ・タローさんが70代のころ
妻の美千代さんと。キダ・タローさんが70代のころ
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 5人組のこのバンド、バイオリン奏者が俳優の藤岡琢也氏だったのは有名な話だが、レパートリーはたった3曲。しかし「関学の大学生主催のダンスパーティーに週1回くらい呼ばれたりして。みな金持ちやから、でかい家ですねん。そこで3曲演奏してお金をもらえました」。

 珍しがられて、演奏の場はどんどん増えた。神戸のダンスクラブでも専属扱い。しかし、アコーディオンでの作曲作業に限界があるので、同じように鍵盤が付いているピアノに転向。十数人編成のジャズのビッグバンドのピアノ奏者として、大阪にできたばかりのダンスホールや進駐軍のクラブなどで腕を上げた。

 そんなある日、大阪・ミナミのパラマウントというキャバレーでバンドマスターから初めて作曲を依頼された。「18歳か19歳でしたね」。その曲を歌ったのが後の「かしまし娘」の長女、正司歌江さんだった。それにしても、なぜ、すぐに作曲できたのか? 「ジャズバンドでピアノを演奏すること自体が作曲作業なんです。楽曲はコード(和音)とメロディーとリズムでできており、決められたコードとリズムにアドリブ(即興)でメロディーを乗せる。すなわち、演奏中は絶え間なく、強制的に作曲してるわけですわ」。おまけに編曲もしっかり学んでいた。「ジャズピアノの楽譜には、コード進行とリズムのほか、各セクション(楽器)の動きが書いてある。どんなアホでも毎日、それを何万回も見て演奏してたら楽曲の構造が手に取るように分かって、編曲のノウハウが身に付く。当時、はやっていた映画音楽も簡単に楽譜に起こせましたよ」

(次ページは)モーツァルトは大嫌い…

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