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【日本語メモ】明治の若者たちの道標 加越能育英社と「同感の士」

 輔弼(ほひつ)-天皇に対する進言・助言のこと。大日本帝国憲法(明治憲法)では第55条で定めている。国務を担う各大臣は、天皇の権能(権限・職権)の行使につき個々に天皇への輔弼責任を負った。日本国憲法でも第3条で「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要」とし、国民に対する責任は内閣が負うとしている。

 大正・昭和初期に活躍した憲法学者、清水澄の青年期は明治中期である。金沢の旧制四高(石川県専門学校)を卒業した翌年、明治23(1890)年9月に東京帝国大学に入学する。同じ年の11月には明治憲法が発布され、帝国議会が開会した。このとき22歳。自らの学説を構築していく出発点でもあった。

 帝大では仏法科を選んだ。なぜフランスの法体系を学ぶのか。清水は理由を残していない。ただ後年、庶民向けに分かりやすく憲法を解説したエッセーに興味深い記述がある。

「西洋の民主国の中で(中略)フランスは、王政(18世紀のブルボン朝)-共和政(フランス革命)-帝政(ナポレオンの皇帝即位)-王政(ルイ18世による復古王政)-共和政(1830年の7月革命)-帝政(ナポレオン3世の皇帝即位)-共和政(普仏戦争の敗戦で皇帝廃位)、といふ風に幾度も政体が変更したが、フランス国家はどこまでもフランスとして在して居る(中略)国民が国王を死刑に処したり王政共和と勝手に変更したりするのも(中略)民主国の人々に取つては何の不思議でもないのである」(帝国憲法の話・大正2年、原文は旧かな旧漢字、かっこ内は筆者) 

 維新以来「五箇条の御誓文」を旗印に、新しい国造りへ国民が一丸となってきた。その自国に憲法ができた。政府の上官から野の学者、学生まで提灯(ちょうちん)行列をして祝った。清水もその景色の中にいたし、大学での新たな学問に情熱を燃やしていたはずである。

 明治の発展期に掲げた国の目標は「欧米列強並みの立憲国家」だった。憲法に拠(よ)り治められる国の理想像や国内法の制定・整備をどう進めるのか--民主主義のもとで政体(政府=内閣)はその時々に変化しようとも、永久的に国体(国家)は持続する--天皇を国の中心に置いた法体系の追究へ“国家の先輩”フランスに学ぼうとしたのではなかろうか。

 もう一つは、この当時の学生の奨学制度に注目したい。清水は帝大入学に伴い、東京に本部を置く「加越能育英社」から援助を受けた。育英社が運営する学生寮に入り、寄宿する同郷の先輩や仲間たちから受けた刺激は小さくなかった。

 加越能育英社は明治12(1879)年に旧加賀藩士6人が約18円(現価で30万円相当)を積み立て設立。旧藩3州(加賀、越中、能登)出身の有望な学生を資金面で援助し、国家や社会のための人材育成を目指した。奨学金は、全国の石川・富山両県出身者からの寄付に加え、旧藩主の前田家が2000円(同約3300万円相当)を出資し基金とした。3年後(15年10月)には在京学生の寄宿舎「久徴(きゅうちょう)館」が市ケ谷の長泰寺に開館。41(1908)年に「明倫学館」として新築再興し、現在も続いている。

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