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【石仏は語る】216基 鎌倉幕府の御家人ら尽力 高野山町石 和歌山県高野町

高野山町石
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 高野山の表参道には1町(約109メートル)ごとに、町石(ちょうせき、道標)が建てられています。壇上伽藍(だんじょうがらん)にある根本大塔を起点にして、慈尊院までの約22キロの参道には180基、さらに大塔から奥之院の弘法大師御廟(ごびょう)までの約4キロにも36基が建てられ、全部で216基の町石が建立されています。

 弘法大師が開山した平安時代には、木製卒塔婆(そとば)だったのではないかといわれており、寛治2(1088)年の「白河上皇高野御幸記(こうやごこうき)」にも記されているように、当初は木製だったようです。鎌倉時代の文永2(1265)年に遍照光院(へんじょうこういん)の覚●(=学の旧字体の右に占の口が又)(かくきょう)上人が石造の町石卒塔婆建立を発願し、弘安8(1285)年に完成しました。

 町石の形態は、その卒塔婆の願文に高さ一丈一尺(約3・33メートル)、幅一尺余(約30センチ)とあります。一石五輪塔の型式で地輪を方柱状に長く造ってあります。石材は讃岐産の花崗岩(かこうがん)を用いており、経文を書写した礫石(れきせき)を敷いた上に建てられています。銘文の梵字(ぼんじ)は小川真範大僧正、漢字は世尊寺流(和様書道の流派のひとつ)の書体といわれます。

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 この町石の施主は後嵯峨上皇(「太上天皇」銘)をはじめ鎌倉幕府執権の北条政村、時宗や有力御家人の安達泰盛らでした。なかでも泰盛は最も力を尽くした人物でした。地方の武将、豪族、僧侶など、施主の多くが当時の有力者であったことから分かります。泰盛が幕府に働きかけて完成したとみられます。

 なかでもわずか六基ですが「十方施主」、「十方檀那」とある無銘の町石があります。この町石は高野聖の勧進に応じて、浄財を喜捨した庶民の多くが大師信仰に導かれたものと考えられています。

(地域歴史民俗考古研究所所長・辻尾榮市)

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