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【歴史シアター】未完の都・恭仁京 流転の聖武天皇、波乱の人生

恭仁宮の大極殿跡。変転した聖武天皇の思いは…=京都府木津川市加茂町瓶原
恭仁宮の大極殿跡。変転した聖武天皇の思いは…=京都府木津川市加茂町瓶原
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 奈良時代中期に聖武天皇(在位724~49年)が、平城京から都を遷した恭仁京(くにきょう)の宮殿・恭仁宮(京都府木津川市加茂町瓶原)。天皇が重要儀式を行う大極殿院(だいごくでんいん)を囲っていたはずの築地(ついじ)塀(土壁)の回廊(両側を通路にした複廊)が、工事の完成を見ないまま途中で途切れていたことが分かった。都を次々と変え、「聖武天皇の彷徨(ほうこう)5年」といわれた時期に、わずか3年余りという短命の都だった恭仁京。文武百官が執務した朝堂院の存在も確認できておらず、本格的な宮都造営を目指しながらも未完に終わった実態が次第に鮮明になっている。 

(編集委員 上坂徹、写真も)

■朝堂院確認できず

 恭仁宮の宮域は昭和48年度から続く発掘調査により、東西約560メートル、南北約750メートルで平城宮の3分の1の規模だったことが確認されている。先行する藤原宮や平城宮の施設構成などから、恭仁宮でも北側から南に向かって、天皇の住まいである内裏▽儀式などが行われる中心施設の大極殿院▽朝堂院▽官人らの待機場所である朝集院-が建てられていると想定。

 内裏の想定場所から、東西2棟の建物遺構を確認。従来は1区画しかない内裏が2区画設けられていた。その南側が大極殿院の区画で、高さ1メートル以上の土壇に建つ東西45メートル、南北20メートルの礎石建物を確認している。

 正史である「続日本紀』には、平城宮から恭仁宮に大極殿と築地回廊を移築したことが記されている。大極殿の周囲にめぐらされているはずの築地回廊は、推定区画の北半分の部分では確認されているが、南半分は不明。ただ、その延長線上では土をきつくたたき締めて整地した基壇が確認されている。しかし、築地塀を建てる際の礎石や柱穴はなかった。

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 一方、大極殿院区画の南面と朝堂院区画の境目付近からは東西方向に約3メートル間隔で5つの柱穴が出土。掘立柱(ほったてばしら)の塀の跡とみられる。発掘調査している京都府教育庁文化財保護課の中居和志副主査は「大極殿を囲う回廊を造るつもりで、築地塀の基壇部分は造成したが、何らかの理由により途中で中止したのだろう。回廊の南面だけ掘立柱塀というのは不自然だが、工期が切迫していたため、その後に築地塀を造ることにして、とりあえず間に合わせで、簡素な掘立柱塀にしたことは考えられる」と話している。

(次ページは)3年余りで…

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