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【歴史シアター】怪僧・道鏡、栄華と失脚の巡り合わせ 由義寺 栃木の寺と同じ瓦使用 大阪・八尾

塔基壇の遺構が見つかった由義寺跡=大阪府八尾市東弓削
塔基壇の遺構が見つかった由義寺跡=大阪府八尾市東弓削
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 奈良時代中期の女帝・称徳天皇が寵愛(ちょうあい)する僧・道鏡(?~772年)の故郷・弓削(ゆげ)(大阪府八尾市)に建立した由義(ゆげ)寺。跡地(東弓削遺跡)から、巨大な塔基壇の遺構とともに、大量に見つかった瓦の一部が、東国の仏教の中心として建立された下野薬師寺(しもつけやくしじ)(栃木県下野市)の瓦と、同じ型(笵)で造られた瓦(同笵=どうはん=瓦)だったことが分かった。同寺はくしくも、道鏡が失脚後に別当(長官)として左遷された因縁の寺。絶頂期に見た由義寺の瓦と同じものを、終焉(しゅうえん)の地となった下野薬師寺でも見ることになった道鏡に、どんな思いが去来したのだろうか。

(編集委員 上坂徹)

■瓦かき集め

 東弓削遺跡から出土したのは一辺約20㍍の正方形の塔基壇の遺構。その規模は平城京にあった東大寺の七重東塔(一辺24㍍)、大安寺の七重塔(同約21㍍)に匹敵し、粘質土と砂質土を交互につき固めて、強度を持たせる「版築(はんちく)」が採用されていることから、塔は七重だったとみられる。

 遺構の周辺からは、約5・8㌧分もの瓦が出土した。その種類は多く、軒丸瓦22種、軒平瓦31種。このうち塔に葺かれていたものは軒丸瓦17種、軒平瓦28種。瓦のうち由義寺の塔専用に造られたと判断できるものが軒丸瓦の約24%、軒平瓦の約63%で、残りは平城京や難波宮、河内国の施設や寺院で使われている瓦だった。

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 多様な瓦の出土について、発掘調査を担当した八尾市文化財調査研究会の樋口薫埋蔵文化財係長は「塔の造営中に何らかの不測の事態があり、本来単一の紋様の軒瓦を葺く予定だったのが急遽(きゅうきょ)、平城京など各地の施設や寺院に保管されていた瓦を集めて、塔を造ったのではないか」と推測する。

 『続日本紀』によると、由義寺は称徳天皇の命により建立、神護景雲4(770)年4月に、塔の建設で工事関係者95人に位階を与えた、とある。この塔完成の4カ月後、称徳天皇が亡くなっている。樋口係長は「称徳天皇の存命中に塔を完成させなければならなくなり、急ピッチで建設が進められて、瓦もかき集めたのだろう」。

■430㌔離れた地

 こうした瓦の中の一点、興福寺の紋様が使われた(興福寺式)軒平瓦を下野薬師寺跡から出土した瓦と照合したところ、紋様や型の傷から生まれた特徴(笵傷)が一致したことから、同笵瓦だったことが分かった。技法は一致しているものの、土質が異なるため、同じ造瓦集団により、違う場所で造られたようだ。この瓦は下野薬師寺の中金堂の軒先を飾ったとみられている。

由義寺跡から出土した軒平瓦。下野薬師寺と同じ木型で造られていた
由義寺跡から出土した軒平瓦。下野薬師寺と同じ木型で造られていた
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 下野薬師寺は7世紀末、下野国の豪族で天武・持統天皇に仕えた下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)らが一族の氏寺として創建したとされる。720年代には、国の東国仏教政策の一端を担うため、下野国造薬師寺司が置かれて、官寺として大改修を実施。中金堂や塔など壮大な伽藍(がらん)が整えられた。天平宝字5(761)年には、勅命によって僧侶になるための授戒の儀式を行う戒壇が設けられ、東大寺、筑前観世音寺(福岡県太宰府市)と並び『三戒壇』と呼ばれた。

(次ページは)法王から一転…

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