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【一聞百見】7代目所長に就任 成果に固執せず「熟成」を促したい 国際日本文化研究センター所長・風俗史研究者の井上章一さん

 なぜ、風俗を研究するのか。井上さんは「思想や価値観を超えた、縛りのようなものが風俗にはある」と強調する。例えば、どんな人間も葬式には黒い服を着る。日本人なら家の中では靴を脱ぐ…。「われわれは、何によって支配されているんだろう。人文学はそれほど注目してこなかったし、殊更論じる人もおらず、謎が謎のまま残っている。それを明らかにすることは、とても大事だと思うのです」

■梅原所長のたった一つの注意

 京都で生まれ育った井上さんは、進学した京都大学で建築を専攻した。「幼い頃から美術が好きで、学校では数学が得意。そこで絵心と数学が生かせる建築を選びました」。当初は建築家を目指していたが、「建築文化への疑いのようなものが、沸き起こるようになったのです」と話す。

 大学3年生の時、欧州を個人で旅行し、イタリアのフィレンツェを訪れた。ヴェッキオ宮殿という14世紀初めに完成した建造物があり、市庁舎として使用されていた。「胸が打たれました。日本だと鎌倉時代の建物なんですよ。そこで、市役所の職員が書類を作っているんです」。日本では、考えられないことだった。

 「イタリア人は、数百年前の建物を後生大事に使い続けていて、街並みもとても美しい」。そんな感動を胸に帰国したが、「伊丹空港からバスに乗ったら、ラブホテルの建物が見える所を通ったんです。むごい街に帰ってきたなと…」。

 そして、興味の対象が建築の歴史の方に移っていった。大学院修了後の昭和55年、10年の任期付きで京大人文科学研究所の助手に。その間、処女作「霊柩車の誕生」(昭和59年)を発表し、61年には「つくられた桂離宮神話」でサントリー学芸賞を受賞した。62年には、国際日本文化研究センター(日文研)が創設され、32歳で助教授として加わることになった。

若手研究者のホープとして注目されていた頃の井上章一さん(井上さん提供)
若手研究者のホープとして注目されていた頃の井上章一さん(井上さん提供)
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 日文研の創設に尽力し、初代所長を務めた梅原猛さんから、事前に会いたいという連絡があり、京都市内の梅原邸へ出向いた。「どんなことを言われるのか」と、ややおびえていた井上さんに梅原さんは「君は出した本が評判になっている。若いときから成果を出している人は、よく女性問題で失敗する。そういう男をよく見てきた。くれぐれも注意してほしい」とそれだけだった。「梅原さんは、私を〝色の道〟では、買いかぶっておられたと思いますね」と笑う。

 創設期からのメンバーとして33年間、日文研とともに歩んできた井上さんは、世界における日本文化研究についてこう語る。「山田耕筰を研究しているドイツ人や、滝廉太郎について調べているイギリス人に出会ったら、日本人は奇特な人やなあ、と思うでしょう。でもイギリス人は、シェークスピアを研究している日本人を見ても全然ありがたがらない」。例えば、イタリアのルネサンスの研究者の多くはアメリカ人だという。インド仏教やアンデス考古学の研究も世界中に門戸を開いている。それに対して、日本の安土桃山文化の研究者は、ほとんどが日本人だ。

(次ページは)裸体画を見たときめき…

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