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【ボストンから一言(26)】戦時中に配られたゴムボール「今は亡き弟の喜ぶ顔」

米国のダナ・ファーバーがん研究所で働く泌尿器科の癌専門医。筆者が治療を受けている(新田多美子撮影)
米国のダナ・ファーバーがん研究所で働く泌尿器科の癌専門医。筆者が治療を受けている(新田多美子撮影)

 第二次世界大戦で山下奉文司令官率いる大日本帝国陸軍によるシンガポールの戦いは1942年2月7日に始まった。大勝利に終わったこの戦いによって、国民は来る惨劇を予想もできず勝利を祝った。

 そして日本政府は、日本と朝鮮の子供たちに、祝い品としてゴムボールを配る大盤振る舞いをしている。このことは、当時の子供たちにとっては、生涯忘れることのできない思い出となったと、何人かの韓国人からの話で知らされた。

【米国に住んでいた友人Hさんの話】

 「当時、すでにゴムは不足していて貴重品でしたから、ゴムボールをもらったうれしさは、今でも忘れられません」

【韓国在住の友人Rさんの話】

 「小学校5年の時、学校でゴムボールが配られましたが、1個十銭でした。私の家は貧乏でしたから、2個買う余裕がなく、今は亡き弟にゴムボールを譲ったときの喜んだ顔が、今でも目に浮かびます」

 私がRさんに対し、Hさんは学校から無料で配布されたと話すと、「Hさんの学校は、裕福な家柄の子女のため設立された淑明女学校ですから、無料だったのではないでしょうか」と推測された。

 一方、私は10年前に購入していた本「半分のふるさと」(1993年、福音館)を読み、著者である李・相琴(イ・サンクム)という女性を知った。

 広島生まれの彼女は昭和20年、15歳で家族と釜山(プサン)に帰国している。内容も知らず手にした本だったが、読み終わるのが惜しいほどの心温まる内容だった。

 彼女が「母にささげる」として執筆をしただけあって、親もいず、教育を受けることもできなかった母親ながら、朝鮮人として毅然(きぜん)と生き抜き、子供を諭し言い聞かせる人生訓の一言、一言は、どのような教育者もかなわない。大学教授となった彼女が、日本の恩師や恩人たちを訪ね歩く様子には、心打たれる。

 そして彼女の思い出話の中でも勝利祝いに配給されたゴムボールが出てくる。朝鮮半島出身の父親は、労働者として働き、工事が終われば次の仕事場に移るといった生活で、家族で広島の江田島に住んでいたときの出来事だ。

 余りのうれしさにキャッチボールをしたり、ほうり投げたりするうちに、ゴムボールが江田島海軍兵学校(江田島市)の堀を飛び越えてしまった。意気消沈する子供たちのため、1個のボールを若き兵たちが草むらをはうようにして探し出し、再び彼女たちが手にするくだりには、わがことのように安堵(あんど)してしまった。

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