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【勇気の系譜 第2部】権藤博さん(下)常識にあらがう「革新者」

取材に応じる権藤博さん=名古屋市
取材に応じる権藤博さん=名古屋市
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 実働わずか5年の投手生命だった権藤博(81)にとって、引退後が本領発揮の場だった。転機となったのが中日のコーチだった昭和50(1975)年のオフ、大リーグ傘下の教育リーグを視察した米フロリダでの経験だった。権藤流の礎となる「教えすぎない」持論が培われ、選手の自主性を重んじる育成法に「奔放主義」という言葉も生まれた。

現地で選手に打撃のアドバイスをした私に、監督が放った言葉がすごい。「教えられて覚えた技術はすぐに忘れるが、自分でつかんだコツは忘れない」。教えすぎてはいけないということなんですね

 コーチとして約15年、選手の自主性を尊重し続け、ときには監督と衝突することもあった。一方、横浜の監督就任後は、座右の銘である「kill or be killed(殺るか、殺られるか)」の文言が入ったボールを開幕ベンチ入りした投手全員に渡し、戦う姿勢を前面に打ち出した。

シンプルなんですよ。打たれた中継ぎ投手を、翌日「やり返してこい」と言って送り出すと、しっかり抑えて戻ってくる。プロだから続けてやられることはない。その繰り返しが結果的に中継ぎローテーションという形になりました

 横浜で「守護神」として活躍した佐々木主浩(51)は、コーチ時代を含め3年間、権藤のもとでプレーし、権藤流哲学を目の当たりにした。

負け試合だろうが勝ち試合だろうが、中継ぎのローテーションは崩さない。中継ぎでベンチ入りした投手はチャンスをもらったし、一度や二度の失敗で切り捨てることもなかった

 常識にあらがうような権藤のかたくなさは、「時代への挑戦者」に見えた。

 横浜が日本一となった平成10年の佐々木は、抑えとして1勝1敗45セーブという成績を残したが、唯一、7月7日の阪神戦で救援を失敗した。1点リードで迎えた九回裏、矢野燿大(あきひろ)にサヨナラ逆転打を浴びた。

マウンドで権藤さんは、ボールをぽんと渡すだけ。言葉がなくても互いにわかりあっていた。僕を信頼してくれていたし、僕もその信頼に応えなきゃいけないと思っていました

(次ページ)「殺られたら殺り返す」戦略。権藤に応え選手も成長。そして…

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