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【勇気の系譜 第2部】権藤博さん(上)投手として実働5年 選手第一、痛み知る指導者

握手を交わす横浜監督時代の権藤博さん(左)と西武監督だった東尾修さん=平成11年3月
握手を交わす横浜監督時代の権藤博さん(左)と西武監督だった東尾修さん=平成11年3月
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 実働わずか5年の短い投手生命を終えた男が昨年1月、野球殿堂入りした。権藤博(81)。野球人生で一番の思い出は平成10(1998)年、横浜(現DeNA)監督時代のチーム38年ぶりの日本一だ。勝利のマウンドを託されたのは、絶対的守護神の「大魔神」こと佐々木主浩(51)だった。

権藤さんの起用法は、男気を感じさせるだけでなく、選手の将来を考えていた。結果をすぐに求めたがる監督だったら投手に無理をさせたくなる。でも権藤さんは我慢する。「俺が責任をとる」って言葉が口癖でした

 権藤は投手コーチ時代、投手の起用法をめぐる考え方が違えば監督と対立することもいとわなかった。そこには、31歳の若さで選手生命を終えた自らの苦い経験があった。

 《権藤、権藤、雨、権藤…》。いまから約半世紀前、連日登板する姿から、こんな言葉まで生まれた。

投げて潰れるなら本望でした。1年目はチームが優勝争いをしていたし、プロで一発やってやろうという野心もありました。当時、稲尾和久さん(西鉄)や杉浦忠さん(南海)が、とんでもないペースで投げており、疑問よりも、憧れの2人に少しでも近づけたという喜びのほうが勝っていました

 昭和36(1961)年、中日に入団。1年目から年130試合のうち69試合に登板し、35勝19敗、防御率1・70という驚異的な成績を挙げ、タイトルを総なめにした。

昭和36年に中日に入団し、投手として活躍した当時の権藤博
昭和36年に中日に入団し、投手として活躍した当時の権藤博
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 しかし、先発投手が年60試合前後に登板する当時の常識は、まだ20代前半だったエースの肩には過酷だった。

自分が思うように投げられたのは、2年だけ。後は肩の痛みとの闘いでした。登板後のアイシングは今や常識だけど、当時はお湯で肩を温めていました。間違いだらけの時代だよ。投げると痛いもんだから、しかめっ面で投げてましたね

 ただ、故障さえなければ200勝も視野に入ったであろう権藤の口からは、未練や後悔といった類いの言葉は一切出てこない。

自分のつらい体験があるからこそ、選手の痛みは分かってあげなきゃいけない。主役はあくまで選手。その主役と一緒に戦う監督やコーチでありたいという考えは常にありました

(次ページ)あの野村克也が、あの江夏豊を…

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