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【日本語メモ】“学都”で花開いた才能

金沢城近くの記念公園に建つ石川四高記念館。レンガ造り2階建ての旧校舎は、清水澄が卒業した2年後の明治24年7月に完成。国重文に指定されている=金沢市広坂2丁目
金沢城近くの記念公園に建つ石川四高記念館。レンガ造り2階建ての旧校舎は、清水澄が卒業した2年後の明治24年7月に完成。国重文に指定されている=金沢市広坂2丁目

 詔(みことのり)--「しょう」とも。天皇の言葉。また天皇の命令を直接伝える国の公文書。この文書形式を詔書(しょうしょ)という。古来、国家や朝廷の大事に際し、広く天皇の意思を伝達する目的で発布された。詔書について明治憲法は具体的な種別や手続きなどを定めていたが、日本国憲法では国会の召集詔書を明記する以外に一般的な法律の定めはない。なお、衆議院の解散と総選挙、参議院の通常選挙の公示は詔書が発布されて施行となる。

 金沢は「学都」とも称される。旧藩の時代は藩校「明倫堂」が、現在の「いしかわ四高記念公園」周辺に置かれ、藩主自らが先導して藩士や領民に至るまで学問の修得を奨励した。江戸後期の写本『明倫堂・経武館御規則』には、開学の年(寛政4年3月)に記した学校設立の目的について、「藩士の教育はもちろん、町在の者も志次第では入学させる」(意訳)と明記。当時これほど庶民の教育に力を入れた例は他藩にほとんどなかった。

 明治期になってもその気風は変わらず、廃藩置県後の明治4(1871)年11月に藩校の遺構を校舎とし「金沢中学校」を開校。翌年の学制発布で「石川県に第三大学区の本部を置く」とされ、高等教育機関の大学校設置へ機運が高まった。県では文部省に「旧藩以来英学や医学など『高尚学』を重視してきた歴史がある。県にとってそれらの専門教育は必要急務である」という趣旨の主張を繰り返している。

 「学都金沢形成の様相--近代日本官立高等教育機関の設置過程」の著書がある大東文化大学東洋研究所の谷本宗生・特任准教授は、こうした動きを「旧藩以来、大量の洋書や漢書に加え、先進的な医学実験用の機材まで有していた」とし、「旧藩主(前田家)が多額の学資金を提供するなど、高等専門教育を実施できる環境は整っていた」と話す。

 14(81)年7月に開校した「石川県専門学校」は国内外の法律や国際法、理数学や語学などを専門的に学ぶ“総合大学”の様相であった。

 谷本さんの著書によると、同校出身者の西田幾太郎(哲学者、1870~1945年)は、「金沢には石川県専門学校といふ学校があつた〈中略〉明治の初年あるいは旧藩の頃から設立せられたもので、当時において外国語で専門の学業を授ける学校であつた。東京を除いて、地方では、その頃、この種の学校はほとんど他になかつたらうと思う。百万石の力で明治の初年既にかういふ学校が金沢にできたものと思ふ。われわれ以前の石川県の出身者は、文官はもとより武官でも、多少はこの学校を通らない人はなからう」と回想している。

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