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【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】(63)「絵を描く」とは魂の領域で関係を結ぶこと

「願い」2019年 133×204cm
「願い」2019年 133×204cm

「ああ無情」に心ふるわせる

 東京・銀座のギャラリー「枝香庵(えこうあん)」で開かれていた「木下晋(すすむ)展-いのちを描く」に足を運び、「願い」と題された作品に目を奪われ、立ち尽くしてしまった。鉛筆で描かれた白髪の女性。目と口は半開き、手は祈るかのように合わされている。パーキンソン病の妻、君子さんを描いた作品だ。白髪の一本一本、浮き上がる血管の一本一本を、ごまかすことなく丁寧に描き込んだ、リアリズムを突き抜けた表現に驚く。だが本当の驚きは、モデルが人生をともにしてきた妻であるということだ。

 鉛筆画の第一人者である木下さんを簡潔に紹介しておこう。昭和22年、富山市の生まれ。3歳のときに同市内にあった自宅から出火、近隣の家にも被害が及んでしまう。一家は逃げるように呉羽山麓に移り、水道もない家で極貧生活を送った。そのころから母の様子がおかしくなり、放浪を繰り返すようになる。時には幼い木下さんの手を引いて家を出ることもあった。

 10歳のときだ。家を出た母を探して街をさまよい、空腹のあまりパンを盗み、児童相談所に保護されてしまう。連絡を受けてやってきた小学校の校長は、ビクトル・ユゴーの『ああ無情』を置いていった。「なぜこんなものを」と、校長の意図を図りかねながら読み始めるや、ガツンと殴られたような衝撃を受ける。「自分と同じ人間がここにいる」。残りを夢中になって読んだ。それ以降、図書館の世界名作全集を読みあさった。

 中学に入ると、木下さんの才能を見いだした美術教師の紹介で、富山大学助教授の大瀧直平が開いていた公開講座で彫刻やデッサンを本格的に学び始める。このとき彫刻家の木内克や洋画家の麻生三郎の知遇を得る。16歳のとき、カンバスや油絵の具を買うカネがないため、ベニヤ板にクレヨンで描いた作品「起(た)つ」を自由美術協会展に出品して入賞を果たす。経済的理由から高校は中退したが、さまざまな仕事をしながら絵を描き続けた。

 22歳、東京都内の画廊で初個展を開き、美術評論家の瀧口修造と出会う。24歳、米国進出をもくろんでニューヨークに渡り、ギャラリーと交渉するものの連戦連敗。「自分の絵には、世界と渡り合えるだけのオリジナリティーがなかったということです」。売り込みの旅は、オリジナリティー模索の旅に変わる。ここで人生の転機となる出会いがふたつ。鉛筆画と美術家の荒川修作である。荒川は木下さんの来し方を聞き、憎しみの対象であった母を描くようにアドバイスしたのである。

 帰国後、木下さんは母と会話を重ね、関係を結び直しながら鉛筆でその姿を描き始める。「絵を描くという行為は、対象と魂の領域で関係を結ぶこと。母を描きながらそう思いました」

 その後、「最後の瞽女(ごぜ)」と呼ばれた小林ハルさんや、元ハンセン病患者の桜井哲夫さん、谷崎潤一郎の傑作『痴人の愛』のヒロイン・ナオミのモデルとなった和嶋せいさんを描き、木下さんの存在と作品は広く知られるようになっていった。

心の目で物事の本質問い続ける

 折良くギャラリーに顔を出した木下さんと語り合いながら、「アウトサイダー」という言葉が私の頭の中に渦巻き始めた。この言葉は、英国の作家・評論家、コリン・ウィルソン(1931~2013年)が1956年に発表した『アウトサイダー』と分かちがたく結びついている。

 少し脇道にそれる。同書を手に取ったのは大学1年、19歳のときだった。翻訳家の中村保男さんが非常勤講師としてわがクラスの英語を担当をしており、早熟な同級生に「あの人はただの語学教師じゃない。福田恆(つね)存(あり)の弟子で『アウトサイダー』の訳者なんだ」とささやかれ、古書店で買い求めたのだ。

 サルトルやカミュが活躍した時代、すなわち「実存的危機」が文学や哲学の大きなテーマとなっていた時代に、彼は「アウトサイダー」たちが書いた文学書や哲学書から膨大な引用をしながら、退屈で無意味で無慈悲と感じられる人生から脱出するすべを探求してゆく。彼自身は「アウトサイダー」の定義をしていないが、「既成の価値観や世界観の枠内にとどまることなく、自分の心の目で物事の本質を問い続ける人間」とでも言えばよいだろう。同書で引用されるのは、ヘッセ、サルトル、カミュ、ヘミングウェー、ニジンスキー、アラビアのロレンス、ニーチェ、ドストエフスキーら。同書には登場しないが、38歳で法官を辞め、自分を見つめながら死ぬまで「エセー」を書き続けたモンテーニュも間違いなくアウトサイダーだ。

妻をこんなに愛していたのか

 この世界にアウトサイダー気取りの人間は掃いて捨てるほどいる。果たしてどれほどが自分の心の目で物事の本質を問い続けているだろう。その実態は、インサイダーでありながら自分を際立たせようとアウトサイダーを気取っているだけだ。私にはそう見える。その私の目に、木下さんはアウトサイダーの人生を余儀なくされ、それを宿命として受け入れて生きてきた人間だと映った。そして描く対象の多くが、木下さんと同様にアウトサイダーとして生きてゆかざるをえない宿命を負わされた人々だ。小林ハルさんしかり、桜井哲夫さんしかり。対象と向き合いながら、木下さんの心の目は研ぎ澄まされていったに違いない。

 「以前、白洲正子さんから肖像画を頼まれたことがありましたが、私には描く必然性がなかったので、お断りしました」と木下さんは話す。そんな木下さんはいま、妻の君子さんを介護しながら、その姿を描き続けている。君子さんは4年ほど前にパーキンソン病を発症し、昨日できたことが今日できない、という調子で病状は進行している。

 「毎日少しずつ壊れてゆく。それは本人がいちばん分かっているでしょう。それでも人間は生きざるをえない。私はそこに引きつけられて妻を描いている。母の話をしたときに、絵を描くという行為は、対象と魂の領域で関係を結ぶことだと言いましたが、妻の姿を描くときもまったく同様です。描きながら、かわいい! オレはこんなに女房を愛していたのか! と驚いて鉛筆が止まることもあります」

 アウトサイダーの心の目は冷徹でありながら、その奥底では対象への生き生きとした関心(愛情)が湯気を立てている。 (文化部 桑原聡)=隔週掲載

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