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【一聞百見】正岡子規と加藤拓川、2人の祖父を語り継ぐ 樹木医・正岡明さん(74)

加藤拓川宛の書簡や絵はがき(正岡明さん提供)
加藤拓川宛の書簡や絵はがき(正岡明さん提供)
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■司馬さんに励まされ

 正岡さんは、奈良市を拠点に樹木医や庭園設計業を営む一方、正岡子規研究所を主宰し明治の人物群をテーマに講演や執筆を続ける。最近は、実の祖父である明治期の外交官、加藤拓川への興味を深めたといい、来秋の刊行を目指して著書の執筆を進めている。

 「まだ若くて未熟だったので、あまり意識していなかった。明治の人物群に興味を深めている今、お話しできていたらと悔やまれます」。正岡さんがこう話すのは、作家の司馬遼太郎をはじめとする父、忠三郎の友人らとの親交のことだ。

 〈司馬は小説『坂の上の雲』を書き始めたころ、主人公の秋山好古(よしふる)、真之(さねゆき)兄弟と子規らの子孫を招いて食事会を開いた。このときに忠三郎と初めて会い、人物に魅せられて家族ぐるみのつきあいが始まった。忠三郎をはじめ子規以降のことなどを小説『ひとびとの跫音(あしおと)』で描いた〉

 『子規全集』を出版する際には、司馬や大岡昇平ら作家が編集委員に入り、兵庫県伊丹市の実家で編集会議を開いた。正岡さんも同席して出席者の写真を撮ったり、言葉を交わす機会にも恵まれたという。「印象に残っているのは私が庭作りの道に進んだときに司馬さんから長い電話がかかってきて『一介の植木職人で終わっても、一流の造園家になっても土くさく土にまみれるのはすばらしい』と励ましてくださったことです」

 こうした著名人との親交が正岡さんの歴史への興味を深めさせたが、拓川に特に注目するきっかけをこう振り返る。「27年前ですが、実家で風呂敷袋に包まれた箱が見つかったんです。500~600通の拓川宛て書簡がびっしり。差出人は西園寺公望や原敬、犬養毅と首相だけで6人で、政治家や軍人ら著名人ばかり。どんな人かと引き込まれました」

 〈加藤拓川はフランス留学を経て外務省入りした。明治40年に、第2回万国赤十字条約の調印に日本側の全権大使の立場で臨んだが、伊藤博文の方針に反したことから退職。衆議院議員や大阪新報の社長などを歴任した。子規の母、八重は姉にあたる〉

 「司馬さんは『拓川の生涯は友人をつくるためにあった』と言われました。確かに拓川宛ての書簡を読んでいくと、自分は表に出ることなく交友した多くの友人を結びつけ、歴史の舞台回しのような存在だったのかもしれないと思うようになりました」と正岡さん。

 拓川が外交官として活躍した時代の日本は貧しく、列強ひしめく世界で、何もしなければ植民地にされる危機にあるなか、徒手空拳で志だけで列強と対峙(たいじ)したのだ。拓川についての著書を執筆中の正岡さんは、こう強調する。「祖父を通じ、純粋な気持ちで『坂の上の雲』に上った明治の人々の矜持(きょうじ)を知ってもらうことは、危機にありながら安穏としている今の日本人に警鐘を鳴らすことになると思います」

     ◇

【プロフィル】正岡明(まさおか・あきら) 昭和20年、兵庫県伊丹市生まれ。大手機械メーカーや大阪の造園会社を経て57年に庭園設計業として独立した。一方、平成12年に正岡子規研究所を設立し、子規や加藤拓川を中心に明治の人物群に焦点をあてた講演や執筆を手掛ける。奈良市在住。

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