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【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】(61)香港の若者へ 前進だけを考えてはいけない

香港で「覆面禁止法」の施行などに抗議し、スローガンを掲げて通りを歩く人たち=5日(共同)
香港で「覆面禁止法」の施行などに抗議し、スローガンを掲げて通りを歩く人たち=5日(共同)

抗議活動は矛を収める時期

 逃亡犯条例改正案に反対して、6月上旬から始まった香港市民の抗議活動が一向におさまらない。その中心は1997年の中国返還前後に生まれた若者たちだ。連日のように実施された大規模なデモで、改正案の撤回を勝ち取ったものの、香港市民は、デモを「暴動」とする警察・政府の見解の撤回▽デモ参加者の逮捕、起訴の中止▽警察の暴力的制圧の責任追及と外部調査実施▽林鄭月娥(りんてい・げつが)行政長官の辞任と民主的選挙の実現-の4つを要求して闘いを継続している。

 この間に警察の実弾によって2人の学生が重傷を負った。そして、中国共産党の操り人形にならざるをえない香港政府は今月5日、「公共の安全」を名目に通信や集会など市民の権利制限が議会に諮ることなく可能になる「緊急状況規則条例」を発動、その第一弾として、デモ参加者のマスク着用を禁じる「覆面禁止法」を制定した。

 明治初期、自由民権運動が高揚するなかで、反政府的言論活動を封じ込める目的で明治政府が新聞紙条例を施行したことを思い起こす。この条例のなかには、記事に筆者の住所・氏名を明記することを原則とし、筆名を禁止するとの条項があった。まさに「覆面禁止法」である。独裁権力は時代や洋の東西を問わず、同じ発想をする。

 「覆面禁止法」が施行されたその日、香港では数千人もの市民がマスク姿で白昼堂々とデモを展開した。その勇気を強く支持したいが、無用な血を流さないためにも、抗議活動はそろそろ引きどきではないか。

前進だけを考えてはだめ

 若くして裏街道に迷い込み、バクチなどの修羅場をくぐり抜けてきた作家が、人生のしのぎかた、つまり人間が生きてゆくうえでのセオリーを語った『うらおもて人生論』という名著がある。著者は言うまでもなく色川武大(たけひろ)さんだ。またの名を阿佐田哲也。そこにこんな言葉がある。

 《物事というものは自然のエネルギーにまかせると、あっというまに終わっちまうものなんだ》

 色川さんはストリップと映画をたとえに出す。こんなところがいかにも色川さんらしい。戦後、額縁ショーから始まったストリップは、ひたすら過激な方向へと突っ走り、ワンサイクルでほぼ滅んでしまった。ところが、ストリップよりも長い歴史を持つ映画は、その生命を保っている。なぜか。映画は工夫が限界に達しかかると、原点に近いところに戻って、半世紀前にやったことを現代的な視点でやり直してきたからだという。

 前進だけを考えていると物事はワンサイクルで終わってしまう。ときには退いたうえで、後退した地点から再出発することが肝要だというのだ。水前寺清子さんが歌った「三歩進んで二歩さがる」-「三百六十五歩のマーチ」の思想だ。

 情熱に突き動かされて前へ前へと進むのは若者の特権であるが、香港の若者に立ちはだかっているのは、世界最強の独裁政権だ。それも、ヒトラー、スターリン、ポルポトなど足下にも及ばぬ数の人間を死に追いやった人物の巨大な肖像を首都のど真ん中に堂々と掲げている政権である。

 世界の目が香港に注がれている手前、中国共産党は武力による弾圧は手控えているが、抗議活動がこれ以上激化すれば、メンツにかけてもさまざまな策を講じてくるはずだ。すでに戒厳令に等しい「緊急状況規則条例」が発動されているのだから、その気になればどんな立法も可能だ。

 中国共産党は、香港の小中学校で「国民教育科」なる愛国教育を2013年度から必修とする準備を進めていたが、教師、学生、子連れの親などが参加した大規模デモで中止に追い込まれた。香港政府がパンフレットで紹介した教材は、中国共産党の一党独裁体制を称賛する内容で、民主化運動を弾圧した1989年の天安門事件については触れていない。また、指導用資料には同党が「進歩的で私心を捨てて団結した集団」であり、複数政党制については「政党の争いが政治に害をもたらす」といった否定的な評価が盛り込まれていた。

 中国共産党内部には、愛国教育の必修化に失敗したことが今回のデモの一因と考える者も多いと聞く。今後、あらゆる手段を使って愛国教育を香港に根付かせようとするだろう。

ソ連の寿命は74年 中国の寿命は?

 モンテーニュは第3巻第2章「後悔について」にこう書いている。

 《世界は永遠の動揺にすぎない。万物はそこで絶えず動いているのだ。大地も、コーカサスの岩山も、エジプトのピラミッドも》

 人間も社会も自然も変化のさなかにある。不動のものなどこの世界に存在しない。人民解放軍、人民武装警察部隊といった強力な暴力装置、国土と情報網のすみずみにまで張りめぐらせた監視システム、愛国教育による中国共産党の正統性と無謬(むびゅう)性の刷り込み、加えて沿岸部のひと握りの国民に経済的恩恵をもたらすことで、独裁政権を維持している中国共産党とて、未来永劫(えいごう)その地位に留まり続けることはできないはずだ。

 1917年、レーニンに導かれたロシア革命によって樹立された世界初の社会主義国であるソビエト社会主義共和国連邦は91年に崩壊した。74年の命。長かったのか短かったのか。今年10月、中華人民共和国は建国70年を迎えたが、果たして中国共産党の一党独裁がいつまで続くのやら。

 香港に高度な自治を認めた「一国二制度」の期限まであと28年。この間に中国共産党内で権力闘争が勃発し、現在よりも開放的な指導者が現れる可能性だってある。香港の若者に言いたい。焦るな。無用な血を流さぬためにも、ここでいったん引き下がれ。間違っても抗議の自殺などするな。しばらくは敵の様子をうかがいながら、インターネットなどを活用した情報戦を中心に闘いを継続し、これから繰り出されるであろう理不尽な施策は、愛国教育必修化や逃亡犯条例改正案を潰したように、世界の声を味方につけて、ひとつひとつ潰してゆくしかない。

 チャンスは必ず訪れる。世界は永遠の動揺にすぎないのだから。

 ※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)によった。   (文化部 桑原聡)=隔週掲載

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