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【歴史シアター】まるで城 鉄壁の貴族邸 源平の争乱…京都・宇治「松殿」跡に土塁

「松殿」跡に建てられている松殿山荘 =京都府宇治市木幡南山
「松殿」跡に建てられている松殿山荘 =京都府宇治市木幡南山
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 京都府宇治市の丘陵地に広がる財団法人「松殿山荘茶道会」所有の山荘。この地には平安時代末期の関白・藤原基房(もとふさ)(1145~1230年)の別業(別荘)「松殿(しょうでん)」があったとされ、ここから貴族邸に不似合いな土塁が確認された。中世の山城を思わせる防御設備。基房は当時、平氏政権を樹立した平清盛と激しく対立、源平の争乱に巻き込まれており、「松殿」のありようは、基房がその最前線にいたことを物語る。(編集委員 上坂徹)

     ◇

◆清盛に敗れ配流も

 松殿山荘の建つ一帯は、鎌倉時代初期の歌人、藤原定家の「明月記」や江戸時代の文献の記述などから、「松殿」があったとされている。宇治市がこの山荘の敷地内を発掘調査したところ、幅2・5メートル、高さ1・7メートルの土塁を確認。発掘部分の両側は里道と園路によってかなり削られており、もともとの土塁は、より大規模だったとみられる。土塁は丘陵の頂部を削って平坦(へいたん)にした土地の縁に沿って、土を盛り上げて構築。確認された範囲は現状長さ400メートルで、建物遺構は確認されていないが、松殿を囲う形で土塁が設けられていたとみられる。

 調査を担当した宇治市歴史まちづくり推進課の大野壽子さんは「貴族邸跡ということで、最初は築地塀が出ると考えていたのですが、防御性の強い土塁ということで驚きました。研究者の中には、中世の山城では、という意見もあります。松殿が建てられたのは源平の兵乱期で緊張した時代。その時代背景を考えて、検討する必要がある」と話す。

 藤原基房は藤原氏の氏の長者で、摂政、関白を歴任するが、台頭してきた平清盛と対立する。

 「平家物語」の一節である(殿下乗合事件)。

 <嘉応2(1170)年、内裏に参上しようとした基房一行と、狩りからの帰りの清盛の孫で13歳の資盛(すけもり)が遭遇。基房の従者が下馬してあいさつしない資盛の非礼を怒り、資盛らを馬から引きずり下ろして、恥辱を与えた。

 それを聞いた父親の重盛は「無礼を働き、私からおわびをしておく」としたが、清盛は「たとえ摂政といえど、幼い者に恥辱を与えるとは遺恨の限り。恨みを晴らさずにおられようか」と激怒。重盛には黙って武士を集め、「(基房の)従者どもの元結い(髪の根を結い束ねるひも)を切り、資盛の恥をそそげ」と命令。清盛側は基房一行を待ち伏せし、その従者を追い詰めて、一人も残さず元結いを切った>

 治承3(1179)年、基房は清盛と対立した後白河法皇と結んで、平氏に渡っていた藤原摂関家領を没収しようとして乱が勃発。清盛は根拠地の福原(神戸市)から大軍を率いて入京し、反対勢力を一掃。後白河法皇を幽閉し、基房も太宰府(後に備前)に配流された。

(次ページ)あの木曽(源)義仲が…すぐ東側には藤原師実の「京極殿」

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