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昭和39年東京五輪の選手村食堂の奮闘描くドラマ

坂田三郎(高良健吾、左)や高木弘(渋谷謙人、右)ら若き料理人たちは、選手団との交流を通して成長していく
坂田三郎(高良健吾、左)や高木弘(渋谷謙人、右)ら若き料理人たちは、選手団との交流を通して成長していく

 2020年東京五輪まであと1年。東京では1964年(昭和39年)以来56年ぶりで、2回目の開催はアジアで初めてとなる。NHKスペシャルドラマ「夢食堂の料理人~1964 東京オリンピック選手村物語~」(23日午後7時半~)では、今まで描かれることがなかった昭和東京五輪での料理人たちの奮闘を通して、来年の東京五輪にも引き継がれている異文化コミュニケーションやおもてなしの原点を探る。(文化部 三宅令)

悪戦苦闘 昭和39年、東京五輪。アジア初の五輪開催に沸き立つ中、問題は世界各国から集まる選手約7000人の食事だった。日本全国から300人の料理人が選手村食堂に集められ、信用ゼロ、経験ゼロのなか、選手たちに安全でおいしい食事を作ろうと、悪戦苦闘。そのなかで、秋田県出身の料理人、坂田三郎(高良健吾)はアフリカの内陸国であるチャド共和国出身の選手、カディナ・フランソワ(MAX)と親しくなる。チャドの出場選手は2人だけ。「国を背負う」という重圧で食が細くなったカディナを励ますため、三郎はチャドの国民食「ダラバ」を食べさせようと思いつく。しかし、ダラバとはどんな料理なのか…。

一大食イベント

 昭和39年の東京五輪には、世界94カ国から選手ら約7000人が参加。選手村にある「富士」や「桜」と名付けられた食堂では、全国から集められた約300人の料理人が働き、ピーク時には1日に肉15トン、野菜6トン、卵2万9000個が調理された。東京五輪は、日本が経験したことのない一大食イベントでもあった。

 膨大な量の食事を短時間で用意するため、戦時中の粗悪品の記憶から、当時は敬遠されていた冷凍食品を利用。技術者らと協力して、食材ごとに冷凍・解凍の実験を繰り返し、おいしい冷凍食品の開発が進められた。

 また、1人が1つの料理を担当するのではなく、後のセントラルキッチン方式につながる分業体制が敷かれた。事前に食材の大きさをそろえてカットし、下ごしらえしておくことで、効率的な調理を可能にした。

 当時の選手村食堂発祥の技術は現代でも、家庭から大手飲食チェーンに至るまで、広く普及している。

食でみる五輪

 選手村食堂という裏方を題材にしたドラマを作るにあたり、同局の柳川強エグゼクティブ・ディレクター(55)は「視聴者に近い、できるだけ身近な目線で東京五輪を描きたかった」と振り返る。

 主人公の三郎は秋田県から上京してきた若き料理人。劇中では地元で壮行パレードが行われていた。制作にあたって当時の料理人たちに取材したところ、北海道では実際に「故郷を背負って立つんだから、頑張ってこい」と大通りでパレードが行われた事実があったという。「このドラマはフィクションではあるけれど、かなり忠実に作っている」と明かす。

 当時の選手村の状況を再現すると、英語やフランス語、ロシア語やスペイン語のほか、土佐弁や鹿児島弁、東北弁が入り交じり、「何を言っているのかさっぱりわからない、カオスな」撮影現場となった。「文化や言葉が違う地方出身の料理人たちが集結し、さらに文化や言語が違う国々から集まった選手たちと交流した。その事実のすさまじさ、面白さを思い知ったとき、コミュニケーションのドラマにしようと思った」

未知の料理

 「国を背負う」というプレッシャーに潰されそうなカディナと自身を重ね、三郎が作る「ダラバ」。現代日本においても、チャドは未知の国だったという。都内にチャド料理を出す店はなく、大使館もない。チャドの外交窓口を兼ねていると情報があったカメルーン大使館を訪ねても「関係ない」。結局、NGO団体やフードコーディネーターの資料、海外のホームページなどを参考にしながら、制作スタッフは謎の料理に迫っていった。

 ダラバはチャドアラビア語でオクラの意味。オクラを砕いたものをベースに、ピーナツバターや肉や魚などを入れて加熱した食べ物だ。口に入れるまで味の想像がつかなかった。「何が正解かもわからず、本当に苦労した。きっと当時の料理人たちも同じような経験をして、世界の料理を学んでいったと思う」と話す。

 人種や立場を超えて、相手のことを考える姿勢が、“おもてなし”の原点だ。「ドラマを楽しみつつ、異文化コミュニケーションについて、思いをはせてもらえれば」と笑った。

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