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【本郷和人の日本史ナナメ読み】天皇のお名前(上)あまりに複雑「後西」号の経緯

後西天皇像(模本、東大史料編纂所蔵)
後西天皇像(模本、東大史料編纂所蔵)
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 天皇のお名前を語るとき、最高難度ともいうべきこの方に言及しないわけにはいきません。第111代、後西(ごさい)天皇です。江戸時代の方で、お生まれは寛永14年11月(1638年1月)、崩御が貞享2(1685)年。在位は承応3年11月(1655年1月)から寛文3(1663)年。幼名は秀宮、諱(いみな)は良仁(ながひと)。後水尾天皇の第8皇子。母は典侍の逢春(ほうしゅん)門院・藤原隆子。母は左中将櫛笥(くしげ)隆致の娘で、その妹は仙台藩主・伊達忠宗の側室となって跡継ぎの綱宗を生んでいる。つまり、後西天皇と綱宗はいとこになります。綱宗は酒色に溺れて藩政を顧みない、という理由で幕命により逼塞(ひっそく)をしいられた人物で、若年での彼の隠居は有名な伊達騒動のはじまりとなりました。

 後西天皇の兄の後光明天皇は崩御の前年に体調を崩されました。その時、まだ男子がいなかったので、生後間もない末弟の高貴(あての)宮・識仁親王を猶子(ゆうし)に迎えました。その状況で後光明天皇は亡くなったのですが、さて識仁親王はまだ幼い、他の兄弟は全て出家してしまった、ということで識仁親王が成長するまでの中継ぎとして後西天皇は即位しました。そして8年後、10歳に成長した識仁親王(霊元天皇)に譲位したのです。在位中はもっぱら学問に打ち込み、歌集『水日(すいじつ)集』など著作を多数残しています。古典への造詣が深く、また茶道、華道、香道にも精通していたといいます。

 この天皇のお名前を理解するときには、これまでは触れていないある史実に着目しなければなりません。それは、中世・近世には「○○天皇」という言い方はされていなかった、ということです。では何と呼ばれていたのかというと、「○○院」。朝廷で作成された時系列でまとめられた書物を見ると、「○○天皇の時、こんなことやあんなことがあった」ではなく、みな「○○院の時、こんなことあんなこと」と叙述しています。ただし、これはあくまでも慣行です。天皇という正式な名称は使用されていないけれど、もちろん存続していた。天武天皇の頃に「大王という呼称を天皇に改めた」というのとは、異なる性質の話です。ですが大正14(1925)年、政府の決定によって、○○院呼びは廃され、○○天皇で統一することになりました。

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