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【一聞百見】未来見据え、人と企業の橋渡し パソナグループ副社長 山本絹子さん(63)

 そこをつなげたら、その中小企業が大きくなる可能性が出てくる。そうすれば新しい雇用も生まれるでしょう。ベンチャーでも中小企業でもいい会社はいっぱいあります。今起きている課題を今のうちに解決する手立てを施していく。それが私たちの仕事です。

 ■フルネームで呼ばれる場所を探して

 --学生時代は編集者を目指していたと聞きました

 山本 高校時代に同人誌のお手伝いをしていたことや父親が読書家だったこともあって。ぼんやりと児童文学に携わる仕事ができたらとは思っていました。出版社の最終面接まで残ったのですが、編集ではなく業務でと言われて…。

 --そこでパソナの前身のテンポラリーセンターへ。昭和54年に入社します

 山本 当時は就職難でしたが、新卒の女子社員を求めていて、事務所のある大阪のイトマンビル(当時)へ行きました。大阪では女子2人採用のところ、80人ぐらい来ていました。

 --その2人に入ったのですね。若い時から「女性の社会参加は当たり前」とおっしゃっていました

 山本 女性はコネがないと就職が難しい時代で、仮に就職しても3年たったら「寿退社」をしなければいけない雰囲気があった。私はどんな形でも「自分の力で生きていく人間になりたい」と思っていました。「誰々のお母さん」「誰々の奥さん」ではなくフルネームで呼ばれる場所にいたいと思ったのです。

 --まあ、40倍の競争率を突破したのですから、採用する側もそんな意志の強さが見えていたのでしょう

 山本 最終面談は南部(靖之・現パソナグループ代表)だったんです。私が聞く限りもう一人有力候補がいたそうですが、南部が拾ってくれたそうです。「あの子、根性あるんとちゃうか?」って。

阪神大震災後に立ち上げた「神戸ハーバーサーカス」で来訪したオリックス・仰木彬監督(当時)と。左から山本さん、南部靖之パソナグループ代表 =平成8(1996)年、神戸市
阪神大震災後に立ち上げた「神戸ハーバーサーカス」で来訪したオリックス・仰木彬監督(当時)と。左から山本さん、南部靖之パソナグループ代表 =平成8(1996)年、神戸市
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 --仕事の面白さを感じ始めたのは

 山本 入社3年で営業に配属されてからでした。企業の人事担当者に派遣のシステムを説明して人材を紹介する。当時は採用を控えていた企業が多かったので、興味を持って聞いてもらえました。社員採用とは違い、派遣は私たちの方にリスクがあるので企業にとっては悪くないシステムです。給料も当時のアルバイトの2倍は払っていました。

 --当時、同業他社は

 山本 外資系を中心にポツポツと出始めていました。派遣といえば、専門職が多いと思われがちですが、企業で圧倒的に多いのは一般事務と営業事務です。例えば、OA機器が出始めると、知識を身につける勉強会を。OA機器も、最初は専門職が扱っていてもいずれは誰もが使えるツールになるものです。

 --そうして仕事の幅が増えていくわけですね。常に時代の2、3歩先を読む

(次ページ)バブル景気「報酬の札束袋」、トイザらス、吉本興業、ソフトバンク孫正義…

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