PR

ニュース プレミアム

【日本語メモ】明治憲法に殉じた“屈原”

 屈原(くつげん)--中国・戦国時代の大国「楚」の政治家であり、同国の新しい詩の洋式「楚辞」の代表的な作家(紀元前324~同278年)。楚の貴族の家柄で、懐王に仕えた。諸国の併呑をもくろむ大国「秦」との紛糾の中で内政・外交に活躍。しかし、彼の才能をねたむ者たちの讒言(ざんげん)により次の頃襄(けいじょう)王のときに追放された。各地を放浪した末、秦によって滅亡に瀕(ひん)する祖国を見るに忍びず、汨羅(べきら)江(川)に身を投じた。

 産経編集センター校閲部の部員が日頃の業務で気になる日本語のエピソードなどをつづってきた「赤字のお仕事」。今年からリニューアルした「日本語メモ」で、私の回は1人の明治人を連載したい。その人の仕事や取り巻く環境、言い残した言葉や文章などに関わるキーワードを毎回紹介して、人柄や人生を浮き彫りにすることを構想している。

 取り上げるのは明治・大正期の憲法・行政法の学者として著名な清水澄(とおる)だ。清水は旧加賀藩出身で明治改元まで2カ月と迫った慶応4(1868)年8月、金沢城下に店を構える表具師の長男として生まれた。金沢四高から東京帝大に進み、明治27(1894)年に内務省に入った。31年ドイツへ留学。帰国後、学習院教授となった。38年には法学博士号を取得。大正期に入り、4年に宮内省御用掛となって大正天皇に憲法学を進講した。9年には東宮御学問所御用掛として当時の皇太子(後の昭和天皇)に同じく憲法学を進講している。昭和7(1932)年に行政裁判所長官、同19年には枢密院副議長に就任した。

 清水の生涯の中で、特筆すべきは最晩年であろう。第二次大戦の敗戦後の昭和21年、最後の枢密院議長として新しい憲法の審議に尽力した。翌年(1947年)5月3日、新憲法の施行とともに枢密院は廃止。公職追放となった同年9月、自決の辞を残して熱海錦ケ浦海岸から投身自殺した。享年80。

 清水の人生は、アジア初の近代憲法とも称される大日本帝国憲法(明治憲法)とともに歩んだといっていい。帝大の学生だった明治22(1889)年に憲法が発布され多くの憲法解説書が出版された。30年代になるとドイツ国法学の影響を受けて本格的な憲法の学術書が次々と刊行。40年代には井上密(1867~1916年)や美濃部達吉(1873~1948年)ら代表的な憲法学者の学説などにより日本独自の憲法学が形成され発展期を迎える。このころ清水はドイツ留学を経て、学習院教授に就任し、法学博士となった。

 明治憲法における清水のスタンスは正統的・歴史学派的だったといわれる。天皇主権論を中心に憲法学説を展開する学派で、「憲法トハ統治権ノ所在ヲ宣明シ立憲政治ノ法則ニ基キ統治権行使ノ形式ヲ定メタル体則ヲ謂フ」という。憲法を制定し、寄って立つ国の「根本法」であり、憲法と政体とは分離して考えることはできないと主張。国家は公法人であり、天皇親政の基本と調和する限り、公法人たる国家は立憲政体を有すると解釈していた。

続きを読む

あなたへのおすすめ

PR

PR

PR

PR

ランキング

ブランドコンテンツ