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【新大人の遠足】長野・松代 真田家の隆盛に思い馳せる

本丸に巡らされた堀には「太鼓前橋」が架かっていて、「橋詰門」を抜けるたスペースに「桝形」の遺構が残っている=長野市
本丸に巡らされた堀には「太鼓前橋」が架かっていて、「橋詰門」を抜けるたスペースに「桝形」の遺構が残っている=長野市
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 真田信之が信州・上田から松代に「国替え」となったのは、大坂夏の陣で徳川家が豊臣家を滅ぼしてから7年後となる元和8(1622)年のことだった。その居城となったのが松代城で、以降、真田家の治世は版籍奉還までの10代、約250年間に及ぶ。

 城跡の本丸を取り囲むように巡っている堀には、いくらか上に丸く反った「太鼓前橋」が出入口に向けて架かっている。渡り切って「橋詰門」をくぐると、長方形の空間があり、右手前方には、石垣の上に櫓(やぐら)を渡してある「太鼓門」が建っている。まっすぐ進めるようにした方が便利だろうに、と思う。

 だが、この面倒くささこそが、城の防御に適している「桝形」(ますがた)という城づくりの遺構なのである。そう教えてくれたのは、NPO法人「夢空間 松代のまちと心を育てる会」の小俣光弘副理事長。「最初の門を入ると右に進んで、今度は左に行くようになっている」。なるほど、これだと敵方が大挙して攻め込んできたとき、やすやすと中には入れない。

 小俣さんが言うには、今はその面影はほとんどないけれど、三の丸には「三日月堀」(みかげつぼり)という、この城ならではの半円形の堀が、二の丸の出入口を覆うようにつくられていたそうだ。武田家流の築城技術だという。

 松代城の来歴は、武田信玄が川中島の戦いに臨むに当たり、最前線基地として築いた「海津城」なのである。この技術も防御に適していたそうだ。

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