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【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】〈47〉憎悪と正義の回路を断て

ニュージーランド・クライストチャーチで起きた銃乱射テロ事件の犠牲者を追悼するため花を手向ける少女(AP)
ニュージーランド・クライストチャーチで起きた銃乱射テロ事件の犠牲者を追悼するため花を手向ける少女(AP)

犯行の契機は11歳少女の死

 ニュージーランド南島クライストチャーチのモスク(イスラム教礼拝所)で起きた銃乱射テロ事件の主犯格として逮捕された容疑者の白人男性が、犯行直前に会員制交流サイト(SNS)に投稿したとみられる犯行声明文「大いなる交代(The Great Replacement)」を読んでいる。

 冒頭で彼が問題にしているのは出生率だ。欧米諸国の白人の出生率に比べてイスラム系移民のそれははるかに高い。このままでは白人は少数派に転落し、社会と国家はイスラム系移民に乗っ取られると警鐘を鳴らす。次いで「予想される質問への答え」という自問自答という形式で、犯行に至った理由を述べてゆく。

 彼は最初に「お前は何者か」と問い、「私は28歳の普通の白人だ。オーストラリアの低所得労働者階層の家庭に生まれた。私の両親はスコットランド人、アイルランド人、イングランド人の血統だ」と答える。

 「普通の白人」として、この世界に何が起ころうと傍観者的、冷笑的態度で生きてきた彼を変えたのは、仮想通貨への投資で得たカネで、2017年4月から5月にかけて旅した西ヨーロッパでの体験だった。ここで彼は、現在の白人の危機に対処するには、民主主義による政治的な解決ではなく、暴力的で革命的な解決策しかないと確信するようになる。とてつもない飛躍だが、自分のためだけでなく、誰かのために生きたいという根源的欲求を持つ人間には、まま起こることだろう。正邪は別にして。

 最初のきっかけは、4月7日にスウェーデンの首都ストックホルム中心部で起きたトラック・テロだった。スウェーデンへの永住許可申請を却下されたウズベキスタンの38歳の男が、盗んだトラックで歩道を歩く人々を次々とはねた事件だ。4人が亡くなり15人が重軽傷を負った。男はイスラム国の思想に共感していたらしい。

 テロ現場に彼が居合わせたかどうかは定かでないがこう記している。「私はもはや顔に冷笑を浮かべることも、暴力に背を向けることもできなかった。その時は、何かが違った」

 何が違ったのか。彼は続ける。「その違いとは、エッバ・オケルンドだ」。エッバとは耳に障害がある11歳の少女。学校を出て歩道を歩いていた彼女は、背後から襲ってきたトラックに気付くことができず、はねられて亡くなった。彼は記す。「それを止めることができなかった自分の無力さが、巨大なハンマーのように私の冷笑主義を打ち砕いた。もはや私はこの攻撃を無視することができなくなった。これは私の民族、文化、信仰、魂への攻撃だった」

「民主的方法で解決は不可能」

 これに次いで、フランス大統領選挙で極右「国民連合」党首のルペンがグローバリストのマクロンに敗れたことから、民主主義的な解決方法で移民を排除することに見切りをつけたとつづる。これ以降も自問自答の形式で自分の考えと行為の正当性を訴え、章を改めてからは、移民とグローバリズムを批判する思い込みの激しい各論が続く。そのタイトルをいくつかあげておこう。「侵略者の欧州女性レイプ」「同化の失敗」「多様性ある平等のパラドックス」「あなたの兄弟国家を支えよ」「欧州人のためのヨーロッパ」…。

 声明文は74ページにおよぶ長いものだが、そのピークをなすのは間違いなくエッバをめぐる部分だろう。耳の不自由な少女をアイコンに仕立て上げ、傍観者的、冷笑的態度で生きている白人の情緒に強く訴え、暗に「一刻も早く目覚めて自分のあとに続け!」と行動を呼びかける。声明文の最後はこう結ばれる。

 「さようなら、神はあなた方全員を祝福します、そして、バルハラ(勇敢に戦って死んだ戦士たちが迎え入れられるという宮殿)でお会いしましょう。-ヨーロッパは立ち上がる-」

 この声明文を書きながら彼の気分は高揚し、「正義はわれにある」という、ある種の全能感に包まれていったに違いない。

 声明文の中で名前をあげられたエッバの母は、スウェーデンの公共テレビ局SVTの取材に対して、「エッバの名が憎悪の宣伝に利用されるのは悲しい」と訴えた。この訴えが世界に届くことを祈りたいが、グローバリズムの恩恵にあずかることなく、逆に痛めつけられ、将来に希望の持てないプア・ホワイトの中には、彼の声明文に共感を覚えてしまう者もいるだろう。何よりもそれが気がかりだ。

まず他者との同一性を探せ

 恐怖心の裏返しである憎悪が正義と手を組むとろくなことがないのは、人類の歴史が示しているところだ。宗教の名を借りた虐殺は枚挙にいとまがないし、ナチによるユダヤ人虐殺、ポル・ポトによる知識人虐殺も憎悪と正義がタッグを組んだ結果だろう。

 残念ながら憎悪は嫉妬などと同様に人間という存在を構成する重要な要素だ。モンテーニュは第3巻第1章「実利と誠実について」にこう記している。

 《我々の存在は、もろもろの病的特質で固められている。野心・嫉妬・そねみ・復讐(ふくしゅう)・迷信・絶望なども、まったくそれが自然にかなっているかのような顔で我々のうちに宿っている》

 解毒剤(そんなものはないが)を飲んで憎悪を体から流し去ってしまえば、間違いなく人間は人間でなくなる。

 私たちは、憎悪の感情を根絶することができないという前提に立ち、憎悪と正義の結託を断ち切ることに注力すべきではなかろうか。具体的には「国のため」「民族のため」「神のため」「市民のため」「会社のため」などといって「正義」を振りかざす人間を疑ってかかることが肝要だろう。「大いなる交代」などは、情緒に流されることなく、理性をフル稼働させて読むべきだ。理性はそのためにこそある。もちろん、憎悪の感情がわき起こりにくくしたり、わき起こってもこれをうまくコントロールしたりする技術を一人一人が身につけてゆく必要があるのは言うまでもない。

 最近の世界で気になることがある。自分と他者との違いばかりを言い募り、他者を排除しようとする傾向がどんどん強まっていることだ。しかし、身につけた習慣が異なっていても同じ人間なのだ。その気さえあれば、自分と他者の同一性や類似性はいくらでも発見することはできるはずだ。その努力から出発し、そのうえで相違点にどう折り合いをつけるか、互いに知恵を絞るべきだろう。幼稚な考えかもしれないが、それ以外に共存できる道があるのなら教えてほしい。

※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)によった。=隔週掲

(文化部 桑原聡)

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