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【関西企業のDNA・特別編】70年超の太陽工業(下) 万博経て、さらなる成長へ

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建設工事が進む富士グループ・パビリオンの前で。能村龍太郎は左から2番目(太陽工業提供)
建設工事が進む富士グループ・パビリオンの前で。能村龍太郎は左から2番目(太陽工業提供)

 自動車やモーターボート、飛行機の操縦から自然現象の仕組みを体感したうえで専門家からも知識を吸収し、数々の事業化に結びつけた太陽工業(大阪市淀川区)創立者の能村龍太郎(のうむら・りょうたろう、1922~2006年)。やがて1970(昭和45)年の大阪万博で会場のパビリオンなどを彩る膜面構造物の製造に至ったのも、外部の知見を自らの事業に取り込む貪欲さゆえだった。(栗川喜典)

「テント学」事始め

 昭和38年、太陽工業はテント用素材の膜を使った輸送用コンテナ「タイコン」を発売。さらに高性能な素材を作れないかと考えた龍太郎は、ロケットの固体燃料のケースを防護するため蚕の糸のように巻かれている丈夫な繊維を知り、東京大学宇宙航空研究所(当時)の教授を退いたばかりの航空工学の権威、糸川英夫を顧問に招き、この素材を使った新製品開発に取り組んだ。新製品は高価すぎて売れ行きは芳しくなかったものの、糸川のような研究者らの知見を積極的に取り入れ、特許などの成果を提供する代わりに実用化に関する権利を得るなどした。

アメリカ館の模型を指しながら、屋根膜の製造に取り組んだ当時を振り返る薮野正年元専務=大阪市中央区
アメリカ館の模型を指しながら、屋根膜の製造に取り組んだ当時を振り返る薮野正年元専務=大阪市中央区

 「日本一、そして世界一のテント屋に」と望むようになった龍太郎は昭和40年、約2千平方メートルのテントによる東京スタジアム・アイススケート場を完成させた。当時は画期的だったが、風雨や日射、雪にさらされるテントを建築物として確立させるために「建築学や工学などを体系づけねば」と痛感。外国語にたけた社員に命じ、膜面構造物に必要な学術情報を集めさせる中、「大阪で万国博覧会というのが開かれるらしい」と聞きつけた。

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