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【プロ野球通信】権藤、権藤、雨、権藤…で殿堂入り 伝説の熱投が生まれた背景

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 「2人は私のあこがれで遠い目標。『いっしょに俺の名前も出てきたか』と思い、自分で感心した」と権藤氏。獅子奮迅の活躍にもかかわらず、中日は1ゲーム差で巨人に優勝をさらわれた。権藤氏は翌62年も30勝したが、投手としては短命に終わった。それでも「投げてつぶれれば本望だとの気持ちだった。稲尾さん、杉浦さんとは馬力やスケールが違ったということ」と未練は口にしない。

 ちなみに権藤氏のプロ入りをめぐっては中日と巨人、西鉄の間で激しい争奪戦が演じられた。九州の社会人・ブリヂストンタイヤのエースは60年夏の都市対抗野球大会に補強選手として出場。まだドラフトのない時代で、権藤氏はチームが敗れると東京でまず巨人との交渉に臨んだ。

 当初は水原茂監督が直接交渉にくると聞かされていた。「水原さんに『頼むよ』といわれたら『お願いします』と返事をしていたはず」と権藤氏。だが、水原監督は現れず、返事を保留したまま九州へ帰る途中に名古屋で下車し、中日との交渉の席へ着いた。

 待ち受けていたのは社会人時代に敵将として相手ベンチにいた濃人氏。当時は2軍を率いていた濃人監督に「頼むよ」と請われると「巨人はあこがれだが、俺には名古屋がちょうどいい」と腹を決め、中日入りした。

 引退後は各チームでコーチを務めたが、「肩を故障した選手の痛みは分かる。もう1人の投手で投げきる時代ではない」と先発から中継ぎ、抑えとつなげる投手の分業制の確立に努めた。

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