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【昭和天皇の87年】ひげをたくわえた皇太子 結婚を機に女官改革に乗り出した

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 ただ、姑(しゅうとめ)になる貞明皇后との関係は、しっくりいかない場合もあったようだ。それには、裕仁皇太子が進める女官制度の改革も影響していた。

× × ×

 大正10年の欧州歴訪で見聞を広め、思考を深化させた裕仁皇太子が、女官制度をはじめとする宮中改革に意欲的だったことはすでに書いた。13年1月に結婚した裕仁皇太子は、徐々に改革に着手する。

 天皇や皇后の身の回りの世話をする女官は、尚侍(しょうじ)を筆頭に典侍(てんじ)、権典侍(ごんのてんじ)、掌侍(しょうじ)、権掌侍、命婦(みょうぶ)、権命婦の7階級があり(※2)、その下に女嬬(にょじゅ)、権女嬬と呼ばれる判任女官、雑仕(ぞうし)や針女(しんめ)などの女中がいた。大正期の女官は二十数人、判任女官は三十数人で、女官に仕える侍女も合わせると数百人の規模になる。

 女官は華族、京都士族、社寺家出身の未婚女性が勤める一生奉公で、皇居外に出ることはほとんどない。しかし裕仁皇太子は、結婚を機に既婚女性も採用し、通勤制を取り入れた。階級も女官長、女官、女嬬の3つとし、人数も大幅に絞った(※3)。

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