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【昭和天皇の87年】東京駅の惨劇 暗殺された首相は、盤石のレールを敷いていた

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 犯人の男は当時18歳の鉄道職員。原内閣の融和的な外交方針や立憲政友会の汚職問題などに怒りを抱いていたとされる(※1)。

 東京駅はたちまちパニック状態となった。しかし、急を聞いて駆けつけた妻の浅は毅然(きぜん)と振る舞い、涙ひとつ見せずに原の衣服の乱れを整えると、遺体を官邸に運ぼうとする側近らを制して言った。

 「原が生きているあいだはお国のものですが、こうなったら私のものです」

 浅は自宅に遺体を運ばせ、そこではじめて、遺体に取りすがって泣き崩れた。

× × ×

 衆議院議員として初めて首相になり、平民宰相の名で親しまれた原は、抜群のバランス感覚をもった政治家だった。

 新聞記者から外務官僚に転身し、陸奥宗光に才能を見いだされて通商局長や外務次官を歴任。退官後は大阪毎日新聞社長を務め、伊藤博文が立憲政友会を結成すると入党して幹事長になった。やがて総裁となり、党勢拡大を図る一方、西園寺公望内閣の内相などとしても活躍する。

 大命降下は7年9月。米騒動の責任をとって総辞職した寺内正毅内閣にかわって本格政党内閣を組織し、国内鉄道網の整備や高等教育機関の拡充などに尽力した。外交では対華21カ条要求で悪化した中国との関係改善を進めている最中だった(※2)。

 原の政治手腕は、政党嫌いで知られる山県有朋も高く評価していた。悲報に接した山県はショックで体調を悪化させ、「原と云ふ男は実に偉い男であつた、あゝ云ふ人間をむざむざ殺されては日本はたまつたものではない」と嘆いたという。

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