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【昭和天皇の87年】大物右翼結集 皇太子妃内定解消の流れを覆した杉浦重剛の大和魂

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 杉浦は言う。

 「婚約を破る時は世人をして道に迷はしむるのみならず、対者を死地に陥る。不仁も甚だしきものなり。尋常人に於(おい)てもこれを為すに忍びず、況(いわ)んや仁愛の本体たる皇室に於てをや」(杉浦の建白書から抜粋)

× × ×

 当時、宮内省は婚約解消の動きを報道禁止とし、厳重な箝口(かんこう)令を布いていた。しかし杉浦が自宅に門下生や知人を呼び、あるいは電話で各方面に働きかけたことから、元老の山県らを糾弾する声が次第に高まっていった。

 一連の経緯を、正史である昭和天皇実録はこう記す。

 大正9年12月6日《杉浦は去る十一月十八日、久邇宮邸における良子女王への進講の後、後閑菊野より、女王が色盲の遺伝子を有する可能性があることから、父邦彦王に対し婚約辞退が求められているとの事実を告げられ、人道上、取るに足らぬ些少の欠点をもって御内定を取り消すことは、満天下に悪模範を示すものであるとしてこれに反発、(中略)一昨四日に至り、病気を理由として御用掛の辞表を提出し、処分保留のままこの日の欠勤に及ぶ》

 《杉浦は十三日も病気を理由に欠勤し、以後東宮御学問所の終業まで、倫理の講義は行われず。杉浦による御婚約決行、御内定取り消し反対を求める動きは、その後、次第に世上の知るところとなり、民間右翼を中心に宮内省や元老山県有朋を非難、攻撃する運動へと拡大することとなる》(6巻194頁)

 杉浦の熱情が、ついに世論を動かし始めたのだ。

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