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【昭和天皇の87年】君主国が次々崩壊… 卒業の春を迎えた皇太子に、皇国の命運が託された

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 国内ではこの時期、普選運動(※3)や被差別部落解放運動、大正9年の第1回メーデーをはじめとする労働運動などが高まり、いわゆる大正デモクラシーの真っ最中である。

 原をはじめ政府首脳は、海外における帝政打破の風潮や共産主義の策動が、国内の各種運動と結びつくことを恐れていた。しかも、この頃から大正天皇の健康が悪化し、国民の前に立てなくなってしまう。明治維新以降、天皇を支柱とする近代化政策を進めてきた日本は、ひとつの曲がり角にさしかかったといって過言ではないだろう。

 そんな中、政府や宮中首脳が大きな期待を寄せたのが、大正8年4月に18歳となり、皇室典範の規定で成年に達した、裕仁皇太子だった。

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 東宮御学問所で修学中の裕仁皇太子だが、8年秋頃から、生活環境が大きく変わり始める。

 天皇名代としての公務が増えたからだ。

 昭和天皇実録によれば、8年11月25日《海軍大学校・海軍経理学校・海軍軍医学校卒業式に天皇御名代として御臨席のため、海軍大学校に行啓される。(中略)天皇御名代としての行啓はこれをもって嚆矢(こうし)とする》(6巻83~84頁)

 9年4月13日《明日挙行の信任状捧呈式の習礼を行われる。(以後)外国使臣による信任状等の捧呈は、皇太子が代理として受領し、これを天皇に転呈することとなる》(同巻121頁)

 翌14日、裕仁皇太子は皇居牡丹ノ間で、イギリス、メキシコ、チェコスロバキアの特命全権大使や公使から信任状の捧呈を受けた。

 この時の様子を、首相の原が日記に書く。

 「御態度並に御言葉等実に立派にて 宮内官一同と共に実に感嘆せりと云へり」

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