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使命感と向学心に燃えた「台湾少年工」 戦闘機製造に従事 20日に記念式典

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 李氏は目を輝かせて「台湾では当時、何万人もの10代の少年が向学心に燃えて少年工に応募したんだ」と流暢(りゅうちょう)な日本語で話した。

 戦前の皇民化教育の影響もあっただろう。だが、李氏によれば、「勉強しながら働く『半読半工』で、給料や退職金に加え、上級学校の卒業資格が与えられる好条件にひかれた」。学校の推薦や保護者の承諾に加え、日本語や礼儀作法、体格など厳しいテストで高倍率を勝ち抜いた。小学校を出たばかりの、あどけない少年も少なくなかった。

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 李氏は、「台湾では(日本の内地から来た)教師や警官の息子が生意気で、よくケンカした」と話す。

 当時は日本の版図に含まれ、日本の領土の一部であったはずの台湾。だが、台湾人は日本人の支配下にある、と勘違いした一部の人々による、差別的で心ない言動も少なくなかった。

 李氏らはそうした中でも少年工になって社会に認められ、生意気な連中に“一矢報いたい”とする思いもよぎったのではないか。

 一方で李氏は「神戸から汽車で名古屋、到着した神奈川などで日本人の本当の優しさを知ったんだ」と懐かしそうに打ち明けた。

 「おばさんたちが振る舞ってくれたおむすびや、お茶の味はいまでも忘れられないな。焼き芋をもらったり服のつぎはぎもしてくれたりした。休日には仲間と横浜の南京街に行って肉まんを買ったな」と李氏は少年の目をして話し続けた。

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 とはいえ、戦時中のことだ。物資や食料が不足する中で、台湾という南国で育った身には神奈川の秋から冬にかけての寒さが身にしみる。戦闘機「雷電」を製造するため鉄板をハンマーで成型するなど、少年には辛い労働も待っていた。

 しかも、李氏は年長者で少年工のリーダー格だった。古参の工員らから執拗(しつよう)ないじめにあったことは、悔しい思い出だ。「米機の空襲で60人もの少年工が亡くなった」という。少年工たちも戦中の最前線にあって生命の危機に直面していた。

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