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【昭和天皇の87年】皇太子を名君に… 大任は海の英雄、東郷平八郎に託された

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【昭和天皇の87年】
皇太子を名君に… 大任は海の英雄、東郷平八郎に託された

画=豊嶋哲志 画=豊嶋哲志

 当時東宮侍従だった甘露寺受長によると、人選を急ぎたい東宮大夫の浜尾新(元東京帝大総長)が、山川にこう相談したという。

 「大学教授の中で、適任者はいないでしょうか」

 山川が答えた。

 「お恥ずかしい話ですが、大学教授の中には一人もいません。しかし民間に、一人だけいます」

 このとき、山川が推したのが、杉浦重剛である。

 安政2(1855)年に近江国膳所(ぜぜ)藩の儒者の家に生まれ、文部省留学生としてイギリスで化学を修学、27歳で大学予備門(のちの一高)校長に抜擢された英才だ。東京英語学校(のちの日本中学、現日本学園)を設立する一方、雑誌「日本人」などの刊行に尽力し、東京朝日新聞の論説記事も長年執筆するなど、教育・言論界で幅広く活躍した。

 だが、当時は持病の神経衰弱のため、長期にわたり転地療養を繰り返しており、新聞にも故人扱いされるほど世間から遠ざかっていた。

 この杉浦が、東宮御学問所を活気づかせ、さらには皇太子妃選定にも大きな影響を及ぼすことになる--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)昭憲皇太后の崩御は2日後の4月11日に国民に発表され、5月26日、京都市の伏見桃山東陵に斂葬(れんそう=埋葬)された。なお、明治天皇の皇后なので、本来なら「昭憲皇后」の追号が贈られるはずだが、宮内省のミスで「皇太后」のまま上奏。のちにミスに気づいたものの、大正天皇が裁可した後だったため、訂正できなかった。明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮では大正9、昭和38、同42年の3回にわたり、「昭憲皇后」に改めるよう宮内省(庁)に請願したが、いったん天皇が裁可したものは変えられないとして、現在も認められていない

(※2)5月の開校当初は外国語や歴史などがなく、時間割が固まるのは秋以降である

【参考・引用文献】

○宮内庁編『昭和天皇実録』4巻

○小笠原長生編著『東郷元帥詳伝』(忠誠堂)

○大正3年5月5日付の東京日日新聞

○甘露寺受長著『天皇さま』(日輪閣)

○藤本尚則著『国師杉浦重剛先生』(敬愛会)

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