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【昭和天皇の87年】近衛師団長を惨殺! クーデター部隊が皇居に侵入した

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 日付が変わった8月15日、大日本帝国が自由意思をもつ最後の一日は、宮城内への軍靴の響きで始まった。

 《十五日、陸軍省軍務課員らを中心とする一部の陸軍将校は、ポツダム宣言受諾の聖断撤回のため、近衛師団を以て宮城と外部との交通通信を遮断するとともに、東部軍の兵力を以て要人を拘束、放送局等を占拠するクーデター計画を立案し、これを実行に移す》(34巻49頁)

 後に宮城事件と呼ばれる、抗戦派将校の暴発である。

 事件は15日午前1時すぎ、陸軍省軍務課の畑中健二少佐、陸軍通信学校教官の窪田兼三少佐、航空士官学校区隊長の上原重太郎大尉らが近衛第1師団司令部に森赳(たけし)師団長を訪ね、クーデターに反対の森に向かって畑中が発砲、上原が斬殺したことから急展開する。

 これを制止しようとした第2総軍参謀の白石通教(みちのり)中佐も窪田に斬殺された。

 続いて畑中は、虚偽の師団作戦命令を発し、それに基づいて近衛歩兵第2連隊の一部が宮城内に展開。第1連隊の一部は東京・内幸町の放送会館を占拠した(※1)。

 さらに、玉音放送の録音を終えて宮城から出ようとする下村宏内閣情報局総裁や大橋八郎日本放送協会会長ら18人が将兵らに足止めされ、二重橋の衛兵所に監禁された。

× × ×

 畑中らの狙いは、君側(くんそく)の奸(かん)と見なした木戸幸一内大臣の排除と、玉音放送を収めた録音盤の奪取だ。いずれかが畑中らの手に落ちれば、事態はさらに悪化するだろう。

 このとき、辛くも危機を乗り切ったのは、徳川義寛侍従の機転だった。

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