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【昭和天皇の87年】タトヘ逆臣トナリテモ… 陸相に“決起”迫る強硬派将校

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 梅津も抗戦派だが、軍の規律を何より重視した。昭和11年の二・二六事件後に陸軍次官となり皇道派の粛正を断行したほか、14年のノモンハン事件後に関東軍司令官となって下剋上的な空気を一掃している(※2)。

 この日、梅津は阿南に言った。

 「今は御聖断に従うよりほかに道はない」

 情に流されやすい阿南が陸相としての統率力を失いつつある中で、軍規に厳しい梅津が参謀総長だったことが日本に幸いした。

 梅津の反対により、竹下らのクーデター計画は頓挫する。聖断に逆らうのだ。全軍一致でなければ成功しないと、首謀者の竹下はみていた。

 しかし、血気にはやる中堅将校の一部はおさまらず、のちに暴走する。

 彼らは、たとえ聖断が下されても、それが君側(くんそく)の奸(かん)によるものなら盲従してはならず、君側の奸を取り除いて正しい聖断に導くことこそ忠義であると信じていた。また、たとえ何百万の国民の命が奪われようと、戦わずして負けるより戦って負ける方が、後世に残るものが多いと信じていた。

 海上護衛総司令部参謀だった大井篤(海軍大佐)によれば、クーデター計画に関与した将校の一人が戦後、大井に向かってこう言ったという。

 「仮に民族が絶滅しても、国体護持に殉じた精神は世界史の頁を飾るであろう。日本国家の特質たる国体を失い、奴隷として残存することは民族として忍びないことだ」

 彼らの思想は、「狂信的」の一言で断罪できるものではないかもしれない。ただ、彼らは知らなかっただろう。地上戦に巻き込まれた民間人がみる地獄を。

 その地獄がこの日、この瞬間、満州の広野で起きていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

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