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【昭和天皇の87年】枢密院議長が首相に横やり 「これでは国体護持が保証できない」

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 このときの平沼と鈴木とのやりとりを、外相秘書官などを務めた加瀬俊一が戦後につづっている。

 「(報告のため)総理官邸に赴くと、平沼男(爵)が来合せて、連合国側回答中の第一項及び第四項は国体維持を不可能とすると述べ、首相もまた大阪城の外濠を埋めるに等しいと云つて若干動かされた様子も見えぬではなかつた。(それまで終戦派に傾いていた)形勢はかくて再び逆転の兆を示した」

 事実、平沼の横やりを受けた鈴木は、直後の閣僚懇談会で、すべてを振り出しに戻すような発言をしてしまう-。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

【参考・引用文献】

◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻

◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)

○平沼騏一郎述『国体に関する訓辞』(農村自治研究倶楽部)

平沼騏一郎 枢密院議長や首相などを務めた戦前の司法界最大の実力者。1867(慶応3)年に岡山県で生まれ、上京して帝国大学法科大学を卒業。司法省に入り、東京控訴院検事、大審院次席検事、司法次官、検事総長、大審院長、法相(第2次山本権兵衛内閣)などを歴任。司法界に絶大な影響力を持ち、昭和11年に枢密院議長、14年に首相に就任した。一方で右翼団体「国本社」の会長を務め、観念右翼の巨頭と評された。ファシズム的だと誤解されることも多く、穏健保守派の元老、西園寺公望から嫌われていたが、平沼自身はファシズムを共産主義と並んで危険視しており、むしろ日米関係の改善に尽力した。戦後はA級戦犯に指定され、東京裁判で終身禁固の判決を受ける。昭和27年に病気のため仮釈放となり、直後に84歳で死去した。

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