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【昭和天皇の87年】激高する軍部 天皇は「至極冷静に」対応した

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 これに対し昭和天皇は、「至極冷静に」対応したと、当時参謀次長だった河辺虎四郎が戦後に回想している。

 「梅津総長が(皇居から)帰って来られたとき、上奏の際の模様をたずねたところ、天皇は至極冷静に総長の申し上げることをお聴きの後、公式の敵側の返信でもない放送、しかもその日本の訳語もよく練ったものかどうかも疑わしいのに、それをつかまえてやかましく議論立てすることなど、つつしむべきだと、両総長をむしろ戒められるお気持ちを拝したとのことであった」

 だが、それで大人しく引き下がる抗戦派ではなかった-。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

【参考・引用文献】

◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻

◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)

○迫水久常『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』(ちくま学芸文庫)

○河辺虎四郎『市ケ谷台から市ケ谷台へ 最後の参謀次長の回想録』(時事通信社)

ポツダム宣言 「全日本軍の無条件降伏」などを求めた米英中3カ国首脳による宣言。軍国主義の除去▽領土の限定▽武装解除▽戦争犯罪人の処罰▽民主主義的傾向の復活-などの条件を示した上、日本への降伏要求の最終宣言として、1945(昭和20)年7月26日にドイツ・ベルリン郊外のポツダムで発表された。これに日本の陸海軍は反発したが、東郷茂徳外相をはじめ終戦派は、国体護持(天皇の地位の保全)を唯一絶対の条件として受諾すべきと主張。激論の末、昭和天皇の聖断により外相案で決定し、中立国を通じて米英中ソ4カ国に「(ポツダム宣言の)条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に右宣言を受諾す…」とする緊急電報が発せられた。

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