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【国会議員に読ませたい敗戦秘話】
石原慎太郎が忘れ得ぬ東京裁判で味わった屈辱とは… マッカーサーによる政治ショーの実態を暴く

そんな戦勝国の一方的な裁判に正面から異を唱えたのが東條だった。
キーナンによる東條への尋問は47年12月31日から48年1月6日まで続いた。
キーナン「米国は日本に軍事的脅威を与えたのか?」
東條「私はそう感じた。日本もそう感じた」
東條はこう語り、米国にハル・ノートを突きつけられ日米開戦が避けられない状況だったことを縷々説明し、キーナンの「対米侵略戦争論」をはね返した。
東條は尋問直前に提出した口述書でも「この戦争は自衛戦であり、国際法には違反せぬ。(略)勝者より訴追せられ、敗戦国が国際法の違反者として糾弾されるとは考えたこととてない」と主張。その上で「敗戦の責任は総理大臣たる私の責任である。この責任は衷心より進んで受諾する」と結んだ。
自らも認めた通り、東條が大戦時の指導者として多くの兵や国民を死なせた責任は大きい。陸相時代の41年1月に、「生きて虜囚の辱を受けず」の一節を含む戦陣訓を示したことも非難されても仕方がない。逮捕時に自殺を図ったことも不評を買った。
東條の指導力や先見性にも疑問符がつくが、GHQが貼った「日本のヒトラー」というレッテルはあまりに酷だろう。少なくとも東條が昭和天皇を守る盾になる一心で東京裁判に臨んだことは論をまたない。