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【世界記憶遺産】
中国版「アンネの日記」こそが南京大虐殺がなかった証拠だ! 藤岡信勝(拓殖大客員教授)
月刊正論2016年1月号。お求めは記事中の「ご購入はこちらへ」のリンクからどうぞ
第3に、中国人自身による事件の記録であるということがこの資料を大きく扱う要因になっていると考えられる。従来、南京事件のまとまった文書といえば、中国人以外の外国人が書いたものばかりだった。そうした中で、この資料について、『戦場の街南京-松村伍長の手紙と程瑞芳日記』(2009年、社会評論社)の著者・松岡環氏は、「中国人が、南京大虐殺をその当時、その場で記録した文章はおそらく程瑞芳日記をおいてはないといえるでしょう」と述べている。
以上のことから、程瑞芳日記が、記憶遺産の資料のトップにあげられることになったと推測できる。
日記は「南京大虐殺」不在の証明
ところが、程瑞芳日記の内容を読んでみると、誠に拍子抜けするだけで、この文書のどこにも「大虐殺」など書かれていないのである。全くの噴飯物と言わざるを得ない。
この日記をめぐる前後の状況をまずのべておきたい。南京の通常の人口は100万人だが、日本軍との戦闘が近づいてくると、多くの市民が財産をあるったけ持ち出して、近郊に疎開した。彼等はなぜ逃げ出したかというと、中国軍が来るのが恐ろしかったからである。日本軍がくれば市内の秩序が回復することを市民は期待し、歓迎していた。
地方に疎開することができず、南京に取り残された極貧層の20万人の市民は、防衛司令官の命令で市の中心部に設定された安全区に収容された。その安全区の中に金陵女子文理学院(金陵女子大学から名称変更)があった。
そこで、金陵女子文理学院が避難民の収容所の役割を果たすことになった。同学院の建物には4000~5000人の婦女子を収容したが、やがて男性も収容し、人数は9000人にふくれあがった。入れない市民は路上で寝起きした。衛生状態も治安も極めて悪かった。
加えて、安全区には1万人以上の敗残兵が、武器を持って潜伏していた。後に摘発された武器弾薬は、トラック50台分に及んだ。彼等は軍服を脱ぎ捨て、民間人の服装をして、便衣兵となっていた。こうした行動は戦時国際法違反であり、民間人に潜り込んだ敵兵を摘出して掃討することは戦闘の一環で合法的な行為だった。
日本軍は12月14、15、16の3日間、掃討戦を展開した。
