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【満州文化物語(11)】級友の多くがソ連軍に殺されたなんて…生死分けた「紙一重」 助かった者たちのトラウマ

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【満州文化物語(11)】
級友の多くがソ連軍に殺されたなんて…生死分けた「紙一重」 助かった者たちのトラウマ

来日した残留孤児。葛根廟事件の被害者も=昭和61年(大島満吉氏提供) 来日した残留孤児。葛根廟事件の被害者も=昭和61年(大島満吉氏提供)

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 紙一重の差だった。生死を分けたのは…。

 時事通信解説委員長、日銀副総裁を務めた藤原作弥(さくや)(78)はソ連軍(当時)が満州に侵攻してきた昭和20年夏、興安街(こうあんがい)の国民学校(小学校)3年生だった。

 葛根廟(かっこんびょう)事件で、同じ学校に通っていた約270人の児童の多数が亡くなっていたことを知ったのは戦後40年近くが過ぎた40代半ばになってからである。

 「本当に驚きました。私のクラスメートの多くが、ソ連軍によって銃殺刑のように殺されたなんて。爆弾で集団自決したり、親子で刺し合ったり、青酸カリをあおって亡くなった人もいる。8歳だった自分だって、そこに入っていたかもしれない。残留孤児になっていた可能性もあった。そんなことも知らずにおめおめと…」

 ソ連軍が3方面から国境を越えたのは8月9日、興安街には13日に、そして、葛根廟事件は14日に起きている。藤原の父親は興安街にあった満州国軍の軍官学校の教官(文官)だった。危うく難を逃れたのは軍関係者として、いち早くソ連侵攻の情報を知り、10日午後発の列車で興安街を離れることができたからだ。

 「自分たちだけが助かった」。その後ろめたさがトラウマになって藤原に重くのし掛かった。犠牲者のほとんどは、藤原一家が住んでいた同じ「東半分地域」の住民だったのである。

 興安街には、満州北西部に位置する興安総省の総省公署(役所)が置かれていた。ソ連の侵攻に備えた避難計画を含む「興蒙(こうもう)対策」は総省公署が中心になって作成済みだったが、守ってくれるはずの関東軍(日本軍)は侵攻時期を読み誤った上、早々と南への後退を決めてしまう。共同作戦を行う、満州国軍も助けてはくれない。モンゴル系の将兵はソ連侵攻を知ると、反乱を起こしたり、逃亡したからである。

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