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【小山評定の群像】(77)水谷勝俊 先を読み、いち早く徳川に接近

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【小山評定の群像】
(77)水谷勝俊 先を読み、いち早く徳川に接近

 常陸・下館(茨城県筑西市)を拠点にした水谷勝俊は、結城氏の家臣であり、独立した地方領主でもあった。北条氏滅亡後、関東に移ってきた徳川家康に接近していく点は皆川氏と共通する。三河武士ではないが、江戸幕府成立前に家康に従っていた譜代大名同格の「譜代成(なり)」。そして、家康の次男、秀康を結城氏の養子として迎える立役者でもある。「時代の先が読めた人物」と評価されている。

 家康にとって関東への移転はやっかいな問題だった。まず、武士団の構造が違う。家康への忠誠心が厚い三河武士に比べ、関東武士は独立した小領主でありながら、大きな傘となる有力武将に家臣として従う。その領主の頭越しに外部勢力と独自に外交する場合もある複雑な構造だ。

 家康に関東移転を命じた豊臣秀吉としては、家康に難治の地を与え、失政があれば、勢力減退の口実にする。そこまで計算通りにならなくても領地経営に苦労して秀吉に対抗する余裕はなくなるという思惑だ。家康側も分かっていて、地域を良く知る者のスカウトに力を注いだ。

 結城氏家臣でもある勝俊は、徳川から養子を受け入れることを提案。結城氏は北条氏対抗策として同盟関係の宇都宮氏から養子を迎えていたが、勝俊は宇都宮氏に頼っていては家中はまとまらないと見極めた。

 長男・勝隆の時代に国替え。兄・正村の武勇を含めた水谷氏歴代当主の功績は、移転先の岡山県高梁市で顕彰されている。

            

 水谷勝俊(みずのや・かつとし) 1542~1606年。水谷治持の次男。兄、正村の隠居で家督を継いだ。関ケ原の戦いでは、佐竹義宣を牽制(けんせい)した功績で2万5千石を安堵(あんど)。長男・勝隆は備中・成羽(なりわ)藩、松山藩(岡山県高梁市)に移り、松山藩の基礎を築いた。 

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