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【小山評定の群像(40)】大田原晴清 秀吉に那須氏再興認めさせる

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【小山評定の群像(40)】
大田原晴清 秀吉に那須氏再興認めさせる

 大関氏、福原氏を乗っ取り、那須氏重臣から主家をしのぐ勢力となった大田原氏。資清(すけきよ)の三男・綱清の代になると、大関氏らとともに一時、主家と対立した。結局は和解して再び那須氏を支えていく。

 下克上の戦国時代、主家を滅ぼして大名にのし上がった武将は数知れない。だが、旧勢力がかなり淘汰(とうた)されてしまったこの時代でも、大田原、大関、福原による「三本の矢」は主家のために働いた。

 1590(天正18)年に家督を継いだ大田原晴清は小田原征伐に参陣し、しっかり“勝ち組”に名を連ねる一方、取り潰された那須氏のため5歳の那須資景(すけかげ)を伴って豊臣秀吉に謝罪、那須氏再興を認めさせた。東北へ向かう途中の秀吉は大田原城(大田原市城山)にも宿泊したという。

 関ケ原の戦いでも功績を挙げる。会津・上杉勢の状況を探って徳川家に報告。弟の大田原増清や那須資景、福原資保(すけやす)、岡本義保(よしやす)らとともに大田原城を守り、上杉勢の南下に備えた。援軍として服部半蔵らも入城するが、徳川側の監視役でもあった。

 小高い山に築かれた大田原城は急な崖となっている東側に蛇尾川が流れ、西は湿地。攻められにくい上、奥州街道を監視できる重要戦略拠点。268年後の戊辰戦争でも同様の機能を果たした。大田原藩は新政府軍につき、会津攻めの要所となった。今は龍城公園として市民の憩いの場となっており、本丸跡の広場を囲む土塁は春、桜が咲き誇る。

大田原晴清(おおたわら・はるきよ) 1567~1631年。大田原綱清の長男。那須氏と宇都宮氏が戦った薄葉ケ原の戦い(1585年)で初陣を迎えた。1590年、病に倒れた綱清から家督を相続し、小田原征伐に参陣。関ケ原の戦い後の加増で1万2千石の大田原藩初代藩主となった。同藩は外様の小藩ながら明治維新まで続いた。

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