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【コンピョウさんの猛ノック】(下)厳しさと懐の深さ「技術」教え「人」を育て

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【コンピョウさんの猛ノック】
(下)厳しさと懐の深さ「技術」教え「人」を育て

新田高監督時代の近藤兵太郎。穏やかな表情の写真は珍しい=1952年、松山市(林司朗さん提供)

 近藤兵太郎(ひょうたろう)率いる嘉義農林が5年ぶりの甲子園出場を目指した1941年夏。台湾大会2回戦の台北工戦は0-0の八回、翌日の再試合も両校無得点の七回途中、ともに降雨で中止された。

 3日目は1-1のまま延長二十五回へ。裏の攻撃で近藤は打席へ向かう俊足の堀田金太郎に耳打ちした。「うまく転がせ」。意表を突くバントで出た堀田はサインで次打者の1球目に二盗、2球目に三盗し、適時打でサヨナラ勝ち。近藤の勝負勘がさえ、5時間を超える熱戦に勝利した。

 だが、3日で計40イニングを戦ったナインは疲労困憊(こんぱい)。翌日の準決勝で嘉義中に敗れた。ただし、決勝を勝ち抜いた嘉義中も甲子園の土を踏むことはなかった。日米開戦を前に全国大会が急きょ中止されたためだ。

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 終戦翌年の1946年3月、家族で台湾から郷里の松山へ引き揚げた近藤は「(空襲で)ほとんど丸焼けで、住む場所がみつかりません」。東京に住む嘉義農林の教え子の呉明捷(ごめいしょう)へ手紙で伝えたが、野球への情熱は衰えることはなかった。

 還暦を過ぎた50年、創部間もない新田高(松山市)の監督へ就任。孫のような世代の部員を相手に「真夏の甲子園で勝ち抜くためだ」と練習では日陰に入るのを禁じた。思わず「ああ、しんど」と漏らした外野手の林司朗には「楽にしてやる。外野へ行け」と命じた。

 老監督がレフトへ、ライトへと放つ緩いノックに約1時間振り回されたが、林は「将来、社会人として通用するため、野球を通じた人間作りが先生の教えだった」と81歳の今は納得している。

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