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「コンピョウさんの猛ノック」(上)弱小チーム、一から出発 甲子園に台風旋風

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「コンピョウさんの猛ノック」(上)弱小チーム、一から出発 甲子園に台風旋風

台湾から甲子園を目指した嘉義農林のメンバー。中列の制服姿の左が近藤兵太郎。その左横にユニホーム姿で座るのがエース呉明捷(堀川盛邦さん提供)

 満州事変が勃発し、飛行家、リンドバーグ夫妻が日本へ飛来した1931年。夏の甲子園で開催された第17回全国中等学校優勝野球大会で旋風を巻き起こしたのが当時、日本の統治下にあった台湾から初出場した嘉義(かぎ)農林だ。

 ユニホームの胸に「KANO」(嘉農)の4文字が目立つナインは初戦(2回戦)で神奈川商工を3-0、準々決勝で札幌商を19-7と撃破。準決勝でもこの年2大会連続出場の小倉工を10-2で退ける快進撃で決勝へコマを進めた。

 エース呉明捷(ご・めいしょう)の好投に加え、選手が迷わずに次の塁をねらう韋駄天ぶり(3試合で16盗塁)が注目された。メンバーが日本人と、呉ら中国大陸をルーツとする漢民族、さらに台湾先住民で構成される異色のチームだったことも人気を呼んだ。

 作家の菊池寛も、大阪朝日新聞に「変わった(異なる)人種が、同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」と好意的な観戦記を寄せた。

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 監督はコンピョウさんの異名を取った近藤兵太郎(ひょうたろう)。大会前はチームについて「まだ荒削りの未完成品」と評していたが、教え子たちの予想以上の奮闘ぶりに目を細めた。

 1888年、松山市生まれで、このとき43歳。松山商の選手時代は精神力とセオリー重視の一高野球を学んだ。卒業後は仕事の傍ら母校を指導し、1919年には甲子園完成前の兵庫県・鳴尾で開かれていた全国大会へチームを初出場させた。

 直後の同年9月に近藤は突然仕事を辞め、親類や知人のいた台湾へ家族で渡る。妻のカナヱは後に「松山商にいれば、野球ばかりしないといけないから…」と回想(愛媛新聞社発行・愛媛の野球100年史)。野球一辺倒の近藤を周囲が説得しての渡台だったことがうかがえる。

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