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【小山評定の群像(24)】
田丸直昌 「秀吉」への忠義、家康も認めた「離脱宣言」
田丸直昌の居城だった田丸城跡。現在では桜の名所となっている=三重県玉城町(同町提供)
「西軍の勝ちはござるまいが、太閤殿下へのご恩もあれば、内府殿(徳川家康)にはお味方できず」。田丸直昌は小山評定で一人、西軍へ走った。それを言ったとたん周りが全て敵となり、生きて帰れないかもしれない。それでも義を貫く誠実さに感心し、家康は快く送り出した。
ただ、直昌は小山評定には参加していないというのが最近の定説だ。
出身地、田丸城がある三重県玉城町教委によると、昭和58年の「玉城町史」には、家康の催促で居城・岩村城を出発、上杉征伐に向かった経緯が書かれている。軽井沢に到着。石田三成から味方するよう飛脚が来て2日間もためらった後、岩村に引き返し籠城。だが、攻めてきた徳川秀忠軍に矢一筋を射ることもなく日を送っているうちに関ケ原で西軍が敗れた。なお、現在の町史ではこのくだりはほとんど割愛されている。直昌は当時、大阪城守備に就いていたとか、岩村城を攻めたのは秀忠軍でないとする説も有力だ。
一方、岩村城があった岐阜県恵那市の岩村歴史資料館は「岩村城は城主が何回も代わり、戦国時代の文献はあまり残っていない」。
行ったはずのない小山の逸話は「一人くらい家康に逆らった人物がいてもいいのでは」という世間の願望から生まれたか。家康自身「ここまでうまくいくとは」という成果を得ながら、ちょっといぶかしんだ。家康は腹八分目が好きだった。意に沿わぬ者もいて、小山評定の成功を現実的に実感できた。
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■田丸直昌(たまる・なおまさ)?~1609年。田丸氏は名門・北畠氏の流れ。織田信長の伊勢侵攻後は田丸城を明け渡し信長の次男、信雄(のぶかつ)に仕えた。豊臣秀吉配下では蒲生氏の与力に。関ケ原の戦い後は美濃・岩村4万石没収、越後に流罪。
