衝撃の伊藤博文暗殺 その凶弾は、日本を対韓強攻策に走らせた

昭和天皇の87年
画=豊嶋哲志

韓国併合(2)

 1907(明治40)年6月、世界24カ国の軍事・外交関係者らが集まる第2回万国平和会議が開かれていたオランダのハーグに、不可解な活動をする3人の韓国人が現れた。

 3人は韓国皇帝高宗が送り込んだ密使で、宿泊先のホテルの門前に韓国国旗を掲揚、英米仏露の各代表のもとを訪れ、自分たちを韓国代表として万国平和会議に出席させるよう求めた。同会議で(1)日本が韓国の外交権を接収した第2次日韓協約は無効であること (2)日本が韓国で行っている保護政策は不法であること-を訴えるというのだ。

 密使は各国メディアなどに向けた演説会も行い、「日韓条約の無効なるを述ぶること滔々(とうとう)数万言、流暢(りゅうちょう)なる仏語を以て日本が韓国に対する虐政不道徳を指摘」したと、同年7月10日付の大阪毎日新聞が報じている。

 だが、各国は第2次日韓協約を承認済みだ。密使が接触した各国代表はいずれも、まともに取り合おうとはしなかった。

 結局、密使は会議に出席できず、外交に疎い韓国皇帝が起こした珍事として片付けられた。しかし、この事件が日本の国内世論と韓国統監の伊藤博文に与えた衝撃は大きかった。

 これより2カ月前、伊藤は高宗が密使派遣などを画策しているとの情報をつかみ、高宗に警告していた(※1)。にもかかわらず事件が起きたことに伊藤は憤慨し、同時に危機感を抱く。

 〈韓国の独立を維持したまま近代化を進めても、韓国は再び国際騒動を起こすだろう。今回は各国から相手にされなかったが、今後の情勢次第では、日清日露に続く第3の戦争の火種にもなりかねない〉-

 ついに伊藤は、緩和政策を転換する。高宗を譲位に追い込んだ上、第3次日韓協約を締結、韓国の外交権だけでなく、内政権をも接収した。

 〈もはや韓国を併合するしか道はないのか〉-

 明治42年6月、伊藤は、失意のうちに統監を辞任した。

 ただ、後任には副統監の曽祢(そね)荒助を推し、併合はやむを得ないとしても、なるべく穏便に、慎重に進めようとしたようだ。

 伊藤は、併合後も韓国人による責任内閣を組織するなど、一定の自治権を付与する構想を抱いていた。もしもこの構想が実現していたなら、今日に至る日韓関係も、少しは違ったものになったかも知れない。

 しかし、一人のテロリストが、伊藤の構想を無残に打ち砕いてしまう。

× × ×

 明治42年10月26日午前9時、ロシアが満州で運営する東清鉄道ハルビン駅に、5両編成の特別列車が到着した。ロシア軍楽隊が歓迎の演奏をし、守備隊兵が一斉に敬礼する中、白髯の老人がホームに降り立つ。4カ月前に韓国統監を辞任した、伊藤博文その人である。

 同駅で丁重に出迎えたのは、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフだ。2人はここで、朝鮮・満州問題について意見交換する予定だった。

 伊藤はココツェフに導かれてロシア守備隊を閲兵し、各国領事団と握手を交した。そして、歓迎のため集まっていたハルビン在住の日本人の方へ歩み寄ったとき、その中から一人の男が躍り出た。

 男の名は安重根。上着の内ポケットからブローニング拳銃を引き抜き、伊藤に向けて3発撃った。安は、ハルビン駐在総領事の川上俊彦らにも銃弾を浴びせ、ロシア守備隊兵に組み伏せられるや、ロシア語で「コレア、ウラー」(韓国万歳)と叫んだ。

 伊藤は特別列車内に担ぎ込まれ、随行医師らの手当てを受けたが、胸と腹を撃たれ、手の施しようがなかった。加害者が韓国人だと知らされた伊藤は、薄れゆく意識の中で、ただ一言、つぶやいたという。

 「馬鹿な奴じゃ」

 このとき伊藤は、これからの韓国がどうなるか、見えていたのかもしれない。

× × ×

 伊藤なき後、韓国併合政策は武断派の元老、山県有朋と、その腹心の陸相、寺内正毅によって進められていく。伊藤は併合後も一定の自治権を残す構想を抱いていたが、山県らにそのつもりはなかった。病気療養中だった第2代韓国統監の曽祢荒助を更迭し、その後任を寺内が陸相のまま兼務した。

 明治43年8月22日、日韓併合条約が調印され、韓国は日本の一部となった(※2)。条約そのものは合法だが、韓国民の支持と協力をほとんど得られなかったのは、言うまでもない。

 以後、朝鮮半島の近代化は急速に進められた。学校が増設されて識字率が上昇し、インフラ整備や土地改良によって商・工・農業いずれも発達し、庶民の生活水準は向上した。

 反面、自治権は限定され、併合への反対活動は弾圧された。このため抗日機運は解消されず、大正8年の3・1独立運動などにもつながっていく。日本は多大な軍事的、財政的負担を強いられ、それは先の大戦時まで変わらなかった。

 なお、日韓併合の1年半後、中国では辛亥革命により清朝が崩壊する。アジアの歴史の歯車が、音を立てて回転しはじめたのだ。

 このとき、皇太子となった裕仁親王の生活も、大きく変わろうとしていた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

(※1)40年5月22日に高宗に謁見した伊藤は、「陛下ハ自今(中略)詐略的御行為ヲ断然更メラレサルニ於テハ当ニ日本ノ感情ヲ害スルノミナラス貴国ノ前途極メテ不利益ナル結果ヲ招致スルニ到ラン」と厳しくいさめている

(※2)併合により韓国は朝鮮と改称され、朝鮮総督には日本の陸海軍出身者(大将)が代々就任するようになった

【参考・引用文献】

○明治40年7月3~15日の大阪毎日新聞

○神川彦松監修「日韓外交資料集成 第6巻〈上〉」(巌南堂書店)

○伊藤之雄著「伊藤博文をめぐる日韓関係-韓国統治の夢と挫折、1905~1921-」(ミネルヴァ書房)

○満州日日新聞社発行「安重根事件公判速記録(再版)」

○春畝公追頌会(金子堅太郎代表)編「伊藤博文伝 下巻」(統正社)

○呉善花著「韓国併合への道 完全版」(文芸春秋)