【昭和天皇の87年】乃木希典の殉死 明治の精神は「天皇に始まつて天皇に終つた」 - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】乃木希典の殉死 明治の精神は「天皇に始まつて天皇に終つた」

画=豊嶋哲志
明治の終焉(2)
 明治天皇の崩御により、嘉仁皇太子は天皇に即位し、裕仁親王は皇太子となった。その皇太子のもとを学習院長、乃木希典(まれすけ)が訪れたのは大正元年9月10日、明治天皇の大喪儀が行われる3日前である。
 雍仁(やすひと)親王によれば、乃木は頬髭も顎髭も伸びたままで、「ふだんの面影なく、あまりの変り方に唖然(あぜん)」とするほどやつれていたという。
 皇太子に拝謁した乃木は、これまで以上に勉学に励まれること、身体を大切にすることを諭し、「中朝事実」など書物2冊を差し出した。
 「これは希典が平素愛読しております本で、肝要のところには希典が朱点をつけております。今はまだお分かりにはなりませんでしょうが、殿下のおためになる本ですので献上致します」
 江戸初期の儒学者、山鹿素行が著した中朝事実は、儒教の思想は易姓革命(※1)を繰り返す中国ではなく、万世一系の皇室をいただく日本に根付いており、日本こそが「中朝」であるとして、中華思想に染まった当時の知識層に民族的な自覚を促した大書だ。
 明治維新以降、急速な西洋化とともに日本古来の行動規範が希薄化する中、乃木は皇太子に、原点をふまえて前に進むよう、教えたかったのではないか。
 ふだんと違う様子に皇太子は、「院長閣下は、どこかへ行かれるのですか」と尋ねたという。
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 13日、大喪儀の夜、午後8時に号砲が轟き、5頭の牛にひかれた明治天皇の霊轜(れいじ)車(※2)が皇居車寄から青山練兵場の葬場殿に向けて出発したそのとき、乃木は妻の静子とともに自刃した。
 警視庁の「死体検案始末書」によれば、軍服姿の乃木はシャツのボタンを外し、軍刀で腹を十字に切り、再びボタンをとめてから、喉を深く突いて絶命した。作法にそった、見事な切腹だった。
 室内の小机には明治天皇の御真影とともに複数の遺書が置かれていた。その中には静子に宛てたものもある。乃木は当初、ひとりで自刃するつもりだったのだろう。だが、二子を失っている静子は、私だけ残さないでほしい、一緒に死なせてほしいと懇請したのではないか。静子は乃木と対座し、乃木の自刃とほぼ同時に懐剣で心臓を貫いた。
 うつし世を 神さりましし 大君の みあとしたひて 我はゆくなり
 乃木の辞世の句だ。ほかに辞世1句と静子の辞世が残されていた。
 享年六十二、静子は五十二-。家の外では、明治天皇の霊轜車を中心とした大葬列が、沿道を埋めた数十万の市民に見送られながらゆっくり葬場殿へと向かっていた。
 翌14日午前《(裕仁皇太子は)乃木自刃の旨並びに辞世などをお聞きになり、御落涙になる》(昭和天皇実録3巻184頁)。
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 明治天皇の崩御と乃木の殉死は、国民に激しい衝撃を与え、それは小説など文化活動にも反映されて今に伝えられている。
 中でも夏目漱石が代表作『こゝろ』につづった一節は、明治世代の日本人の心情を、表象しているといえよう。
 「夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました」
 「御大葬の夜私は何時もの通り書斎に坐つて、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。後で考へると、それが乃木大将の永久に去つた報知にもなつてゐたのです」
 「それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右(さう)だとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません」
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 このほか新渡戸稲造は乃木の殉死を「武士道といふものから見ては実に一分の余地も残さぬ実に立派なもの」と評し、森鴎外は「阿部一族」「興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書」など殉死をモチーフにした秀作を残した。
 だが一方、漱石が「時勢の推移から来る人間の相違」と書いたように、乃木の殉死を時代錯誤とみなし、むしろ茶化すような風潮が、とくに若い世代の一部に生まれていたのも事実だ。
 学習院出身で白樺派の代表格だった志賀直哉は日記で、乃木の殉死を「『馬鹿な奴だ』といふ気が、丁度下女かなにかゞ無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた」と突き放した。
 芥川龍之介も小説「将軍」の中で乃木を茶化し、登場人物に「(乃木の)至誠が僕等には、どうもはつきりのみこめないのです。僕等より後の人間には、尚更通じるとは思はれません」と語らせている。
 明治維新以降、日本は西欧列強の脅威を受けながら、富国強兵の道を一途(いちず)に、がむしゃらに進んできた。しかし日清日露の戦役に勝利し、列強の仲間入りを果たすと、外に向いていたエネルギーが内に向くようになる。
 明治の終焉-。それは良くも悪くも、大正ロマンや大正デモクラシーといった、新しい流れを生み出していく。
 一方、国外ではその頃、朝鮮半島情勢が激しく揺れ動き、それが日本と裕仁親王の将来に、暗雲となって覆いかぶさることになる--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)易姓革命 ある姓の王朝が断絶して別の姓の王朝ができること
(※2)霊轜車 貴人の柩(ひつぎ)を運ぶ車
【参考・引用文献】
○秩父宮雍仁親王著『皇族に生まれて-秩父宮随筆集』(渡辺出版)
○学習院輔仁会編『乃木院長記念録』(三光堂)
○甘露寺受長著『背広の天皇』(東西文明社)
○黒木勇吉著『乃木希典』(講談社)
○同書収録の「遺言条々」「遺書」「夫妻死体検案始末書」
○宮内庁編『昭和天皇実録』3巻
○夏目漱石著『こゝろ』(岩波書店)
○新渡戸稲造談「大将の心事を明かにせばあらゆる方面に好影響を及ぼさん」(雑誌『中央公論』大正元年10月号所収)
○志賀直哉の日記(『志賀直哉全集』第10巻〈岩波書店〉所収)
○芥川龍之介著『将軍』(新潮社・名著復刻芥川龍之介文学館)