「1人で歴史変えた」日系女性 米の強制収容めぐり勝訴導く資料発見 7月死去のアイコ・ハージッグ・ヨシナガさん

 
戦時中の日系人強制収容の不当性を裁判で訴えたフレッド・コレマツ氏(左端)、ゴードン・ヒラバヤシ氏(左から2番目)らとともに、強制収容をめぐる集団損害賠償訴訟の審問があった米ワシントンの連邦最高裁判所前に立つアイコ・ハージッグ・ヨシナガさん(右から2人目)=1987年4月20日(全米日系人博物館提供、ハンナ・トミコ・ホルムズさん寄贈)

 【ロサンゼルス=住井亨介】先の大戦時の強制収容をめぐり、米政府が日系人に謝罪、補償した「市民の自由法(強制収容補償法)」成立に貢献した日系人活動家に、アイコ・ハージッグ・ヨシナガさんがいる。強制収容の不当性をめぐる法廷闘争を勝利に導く資料を発見し、日系人の名誉回復に道を開いたヨシナガさんは、謝罪から30年目に当たる今年、7月18日に93歳で鬼籍に入ったが、その死を惜しむ声はなおも続いている。

 ■主婦から転身

 生前のインタビューや関係者などによると、ヨシナガさんはカリフォルニア州サクラメント生まれの日系2世で、父母は熊本からの移民だった。高校生だった1941年12月に旧日本軍による真珠湾攻撃があり、同州のマンザナー収容所に送られた。

 戦後は各地を転々とし、2回の離婚を経験。ニューヨークで女手一つで3人の子供を育てた。公民権運動とベトナム反戦運動が盛り上がった60年代後半には、日系人が中心となった政治団体に参加。自らが経験した日系人強制収容や人種差別について疑問を深めていった。

 当時からの友人で全米日系人博物館の首席学芸員、カレン・L・イシズカさんは「本当にはっきりものを言う人で、政治的にもとても活動的だった」と振り返る。反アパルトヘイト(人種隔離)政策運動でカーター米元大統領の娘とともに当局に身柄を拘束されたこともあったという。

 ヨシナガさんは3度目の結婚で首都ワシントンへ移り住んだのを機に、疑問を追い求めるように国立公文書館で強制収容に関する調査に没頭。集めた資料は最終的に3万3000件以上にも上った。

 ■画期的発見

 「最初は自分たち家族の収容所での記録を見つけるため、公文書館に通い始めた」(ヨシナガさんの論文から)という調査は、収容手続きの不当性や名誉回復を訴えて最高裁まで争い、44年に敗訴していたフレッド・コレマツ氏の再審訴訟を勝利に導く発見につながった。

 敗訴の根拠となったのが、西海岸からの日本人・日系人立ち退きを指示した陸軍・西部防衛司令部長官、ジョン・L・デウィット中将の報告書。原本版には「(日系人が米国に)忠誠か不忠誠かは見極められない」などとする人種差別に基づく表現があり、陸軍省などの指示で55カ所も書き換えられた報告書が公表されていた。

 原本版10部のうち9部は廃棄処分されたが、ヨシナガさんは82年秋、公文書館の職員の机の上に置かれた原本版の1部を見つける。「(立ち退きを)政府は軍事的に必要だとしていたが、人種差別によるものだったことを証明した」(イシズカさん)もので、翌年のサンフランシスコ連邦地裁での再審勝訴、他の同様訴訟2件の勝利につながった。

 優れた調査能力から連邦議会の「戦時市民転住収容に関する委員会(CWRIC)」に雇用され、「(強制収容の原因は)人種的偏見、戦時中の集団ヒステリー、政治指導者の失策」とする報告書の作成にも貢献。日系米国人への謝罪と補償金支払いを盛り込み、レーガン政権下の88年に成立した「市民の自由法」へとつながった。

 「ヨシナガさんの偉大なところは、たった一人で歴史を変えられることを証明したことだ」

 先の大戦中の日系人部隊の活躍を伝える「ゴー・フォー・ブローク全米教育センター」のミッチ・マキ館長(57)はこう語りつつ、ヨシナガさんの功績が米国社会全体に与えた影響を指摘する。

 「米国は謝罪によって国としての強さや、法の下での正義、平等について責任を示すことになった。これは日系人だけでなく米国人全体にとって非常に大きなことなのだ」

 ■日系人の強制収容 旧日本軍が米ハワイ・真珠湾を攻撃した翌年の1942年、日系米国人は「敵性外国人」とされ、全米日系人博物館によると、西海岸から約12万人が10カ所の収容所に送られた。70年代後半から「リドレス(国家賠償請求)運動」が活発化。強制収容した日系人に対する米政府の謝罪、賠償金支払いを定めた「市民の自由法」は88年8月10日、当時のレーガン大統領が「不当な人種差別だった」として署名、成立した。