「戦争花嫁」たちの戦い 偏見と差別に苦しみながらの戦後73年 - 産経ニュース

「戦争花嫁」たちの戦い 偏見と差別に苦しみながらの戦後73年

米国内のパーティーに出席したアーノルドさん(左)と敦子さん(右)=1970年ころ撮影(Craft family提供)
敦子さん(右から2番目)は今年5月、ルーシーさん(右端)らとともに母校、津田塾大学を訪問し、学生支援を目的とした寄付を行った=5月18日、東京都小平市(Craft family提供)
 先の大戦で進駐軍兵士と結婚して異国へ渡った「戦争花嫁」の子供らが、母親の生涯を映像で伝える活動を続けている。家族から敵国軍人と結婚した裏切り者と批判された上、渡航先では人種差別などに苦しみながらも、異国で自らの人生を切り開いた実母の生き方を記録することで、現在も残る誤解を払拭しようとしている。(植木裕香子)
自分の可能性にかけてみたい-
 「『戦争花嫁』と呼ばれることは恥でも何でもない」。日本在住の米国人ジャーナリスト、ルーシー・クラフトさん(61)が誇らしげに話す母、敦子・クラフトさん(88)は戦後、進駐軍の関連企業に勤めていたルーシーさんの父、アーノルド・クラフトさん=享年(94)=と結婚した「戦争花嫁」だ。
 そんな敦子さんら白人男性と結婚した戦争花嫁3人の過酷な半生を映画で描いた。タイトルは「七転び八起き -アメリカへ渡った戦争花嫁物語」。ルーシーさんと同じ境遇のジャーナリスト仲間2人と共同で制作し、平成27年に上演した際には話題を呼んだ。
 戦後73年。米メリーランド州ベセスタの米国立医学図書館などで活躍した敦子さんはどんな半生を過ごしてきたのか-。
 ルーシーさんによると、「女子英学塾」を前身とする津田塾大を卒業し、都内の中小企業に勤務していた敦子さんは昭和26年、英字新聞に「英語指導者を募集している」などと記載した広告を出した。これにアーノルドさんが応募したことが知り合うきっかけだったという。
 交流を深める中、大学で学んだ英語をすらすらと話す敦子さんに、アーノルドさんは米国の大学留学を提案した。大卒の女性にお茶くみや事務作業程度の仕事しかさせない当時の日本社会に疑問を抱いていた敦子さんも決意を固めた。
 「自分の可能性にかけてみたい」。27年、アーノルドさんの支援で米国へ渡航し、ニューヨーク州やテキサス州の大学に留学した。28年にアーノルドさんからのプロポーズを受けて2人は結婚。ただ、恋愛結婚とはいえ、敦子さんが結婚したのは戦争の傷の癒えない頃だ。ルーシーさんはこう語る。
 「母の実家は父を認めてくれたが、戦争花嫁の中には家族から『うちの敷居を2度とまたぐな』といわれて縁を切られた人もいたようだ」。敗戦後の貧しさから当時、進駐軍相手に水商売などで生計を立てる女性も存在したため、日本国内では「戦争花嫁」を差別視する風潮もあったという。
母への感謝と恩返し
 結婚後の米国での生活も決して平坦(へいたん)ではなかった。
 ユダヤ教徒同士の結婚を望んだアーノルドさんの家族の中には敦子さんとの結婚に反発する者もいた。地域によっては前列に白人、後列に黒人が座る差別的な慣習が常態化していた1950年代の公共バスで、日本人の敦子さんは「真ん中」に座るよう求められることもあった。
 路上で会った見知らぬ白人女性から「家政婦として雇うならいくらか」などと侮蔑的な言葉を投げかけられたり、白人住民が多く治安の良い地域に転居した際、不動産価値を下げる悪徳業者の仲間に間違われたりしたこともあった。
 ただ、母は強かった。米国社会でさまざまな差別や偏見に耐えた敦子さんは子供たちへの教育に力を注いだ。とはいえ、米国人と日本人の気質の違いに、ルーシーさんは最初、戸惑ったという。
 「米国人の母親は一般的に、自分の子供の長所を臆することなく他人に自慢する。でも私の母は違った。友だちの前で私の短所をあげて批判するんですよ」と振り返るルーシーさんだが、最近は母の振るまいが分かるようになった。自身も日本人と結婚し、日本で子育てをするようになったからだ。
 「日本人はどんな場でも謙虚さを美徳とするから、親は競い合うように自分の子供の短所を他人の前であげつらう。そんなことを知らなかったから、子供のころの私は母に認めてもらいたくて懸命に勉強した」
 祖国の違う男女が結ばれ、ともに苦難を乗り越え、懸命に子育てをする-。ルーシーさんにとって映画製作は差別や偏見に歯を食いしばりながら、育ててくれた母の歩んだ道をより深く知りたいとの思いが込められている。
 「だって、戦争花嫁たちは自らの意思で異国の地での生活を選び、懸命に自身のキャリアや子育てに取り組んできたから」。現在、2作目の制作に向けて黒人男性と結婚した花嫁や専門家らへの取材を進めている。
 戦争花嫁 先の大戦後、日本に駐留した連合国軍兵士や軍関係者と結婚し、米国やカナダなどへ渡った日本人女性ら。当時、兵士相手に水商売をする女性もいたため、戦争花嫁たちは日本社会から蔑視されたほか、渡航先でも人種差別などの偏見に苦しんだ。共立女子学園の植木武名誉教授(文化人類学)によると、戦後の混乱期にあたる昭和34年までに結婚した花嫁は約4~5万人と推計されるという。植木名誉教授は、戦争花嫁に関する記録の重要性を指摘した上で、「現代よりもあらゆる面で不利な状況に追い込まれた戦争花嫁の多くは、異国の地で死にものぐるいで生き抜いた。その姿は社会で活躍する女性たちの手本になる部分も多い」と話している。