【野口裕之の軍事情勢】国史の「整形」を重ね飾り付けた憲法に耽る韓国 度を超す自己主張を嫌った米国 - 産経ニュース

【野口裕之の軍事情勢】国史の「整形」を重ね飾り付けた憲法に耽る韓国 度を超す自己主張を嫌った米国

8月15日、日本による統治からの解放の「光復節」式典で国旗を振る韓国の文在寅大統領(手前右から2人目)=ソウル(聯合=共同)
8月15日、「光復節」にソウルで韓国の国旗を振る市民ら(ロイター)
8月14日、韓国政府主催の慰安婦記念日の式典に出席し、元慰安婦の女性にあいさつする文在寅大統領(中央)=韓国・天安(聯合=共同)
板門店の北朝鮮側施設で会談を終えて抱き合う韓国の文在寅大統領(右)と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長=5月26日(AP)
ジャカルタ・アジア大会の開会式が行われるブンカルノ競技場前で、韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の絵が描かれた布をまとう人たち=8月18日(共同)
 邦家の命運を外国に委ねる日本国憲法前文を読み返す度に、恥ずかしさがこみ上げる。そんな時、韓国憲法を読むと恥ずかしさが和らぐ。日本国憲法は“不磨の大典”を気取り進化を放棄するが、韓国憲法は研磨しすぎてバーチャル世界に踏み込んだ。日本のお粗末憲法でさえ、歴史はデリートしてはいない。
 折しも15日は、韓国の《新国家成立70周年》だったが、韓国政府は祝賀しなかった。文在寅大統領が1919年の韓国臨時政府発足を「建国」とみなし、「1948年建国」説を否定したからだ。48年は「政府樹立」の年なんだとか。美しさを求め整形に走る韓国人女性は多いが、国史の「整形」を繰り返し「厚化粧」に耽る国家は珍しい。
朝鮮=日本と認めた米国
 大日本帝國は1945年8月15日、大東亜戦争に敗れた。無政府状態を憂うわが国の朝鮮総督府は《朝鮮建国準備委員会》設置を、比較的冷静・公平に対処できる朝鮮人指導者に要請した。ソ連軍侵攻→朝鮮人政治・思想犯の釈放→朝鮮共産化→日本人への掠奪・暴行…が想定され、治安維持への協力を取り付ける意図もあった。
 ところが、自治組織にすぎぬ準備委は45年9月6日、「朝鮮人民共和国」を樹立し“独立宣言”する。一方、朝鮮総督は主要な建物の日章旗を降ろし、太極旗=現韓国国旗を掲げさせる。が、“独立宣言”直後、進駐してきた米軍は太極旗降下→日章旗を再掲揚させた。米軍の軍政が始まるや、日章旗が星条旗へと付け替えられた。なぜか-。
 米国は日章旗掲揚で朝鮮=日本だと公認。自らの軍政に正当性を持たせた。朝鮮が日本と別国家なら、米国が朝鮮を「解放」したことになり、解放後は統治を朝鮮に任せる過程を生む。これを嫌った米国は終戦直後、米軍上陸前の統治を総督府に密命。治安も日本の軍人・官憲に担わせた。
 米軍上陸後も日本は相当期間、軍政や治安維持に助力した。統治能力や軍紀を大いに評価していた背景もあった。反面、米国は当初、朝鮮人を軍政より徹底的に遠ざけ、朝鮮人の軍政登用を牛歩で進める。なぜか-。
 統治能力欠落+度を超す自己主張+激高しやすさ+共産主義者が入り乱れ=建国に邁進するまとまりに欠ける…など、米国の予習能力は高かった。実際、45年秋、30の朝鮮人軍閥が警察署や新聞社、企業・工場・商店を勝手に接収。米軍は武装解除を強制したが、効果は限られた。政党や政治結社も200近くにのぼり、指導者は内部抗争に明け暮れ暗殺・テロが横行した。準備委が“独立宣言”してできた「朝鮮人民共和国」ですら、中華民国(当時)に建てた韓国臨時政府と対立。2つの“政府”各々の内部でも抗争が激化した。
韓国の戦勝国=連合国入り願望は見果てぬ夢
 ところで、文大統領は《朝鮮戦争(1950~53年休戦)終結宣言》→《南北平和条約締結》→《在韓米軍撤退》→《南北連邦制施行》→《南北統一》を悲願とする。一連の流れの中で憲法改正、いや憲法粉飾で「見事な技法」を発揮するはず。現行憲法も「見事な技法」で飾り付けが施された。
 例えば韓国憲法には、国際法上合法だった韓国が日本となった《日韓併合/1910~45年》は存在せず、代わりに併合期の《3・1運動/19年3月1日》を起点とする建国物語が記される。憲法前文にはこうある。
 《大韓国民は3・1運動で建立された大韓民国(韓国)臨時政府の法統…を継承》
 朝鮮人が日韓併合期の3・1運動に際し独立宣言した点は史実。ただ、憲法が宣言を捉え、建国をうたうのは無理スジだ。このシナリオだと、韓国は大韓帝國の正統後継国家で、日韓併合は歴史上存在しなくなる。《大韓帝國→大日本帝國→米国軍政→韓国》との正史ではなく《大韓帝國→日本の植民地→韓国臨時政府→韓国》との虚構だ。
 3・1運動は参加者は多いが、逮捕→服役者は少なく量刑も軽かった。2カ月で収束し、長期・大規模戦争を思い描くのは誤り。筆者は3・1を反日暴動、韓国は「独立運動」と認識するが、何よりも初代大統領・李承晩(1875~1965年)が戦後の48年に行った独立宣言の正統性まで問われ、運動に建国の起点を見い出すのは難しい。もっとも、韓国憲法も追い風に、冒頭で論じたが、文大統領は不可能を“可能”にした。
 確かに3・1運動後の19年4月11日、韓国臨時政府は中華民国・上海で結成され、各地を転々とした。しかし、適性を疑われ連合・枢軸国双方が国際承認を拒んだ。現に「韓国臨時政府主席」の金九(1876~1949年)は戦後、個人資格で“帰国”。自伝で憂いた。
 《心配だったのは(大東亜)戦争で何の役割も果たしていないため、将来の国際関係において、発言権が弱くなること》
 そう。近代に入り、日本と朝鮮は本格的に矛を交えておらぬ。まともな対日ゲリラ抗戦もゼロ。韓国は「日帝を負かして独立した」のではない。米国にとって戦後の最重要課題は38度線以北に陣取るソ連の半島支配=統一国家建設阻止で、統治能力に欠ける南朝鮮独立は副次程度の認識だった。
 それが一転、米国はソ連傀儡の統一朝鮮建国を警戒、南朝鮮の長期信託統治を断念し、独立へと舵を切った。結局、韓国の独立は対日戦勝国・米国に大きく前倒ししてもらった棚ぼた式だったのだが、「連合国願望」は筋金入りだった。
 李承晩は長崎県・対馬の「返還」要求と抱き合わせで、領土も画定する「サンフランシスコ講和条約署名国の資格が有る」と1949年、米国に訴えた。戦勝国=連合国入りさせろ-とゴネたのだ。韓国は在日朝鮮民族の連合国民扱い=賠償を求めるなど国際の法・常識を無視する数多の無理難題を吹っ掛けたが、日本は無論、米国もほぼ呑めぬ内容だった。米国は難題を押さえ込むべく、韓国の署名要求を預かり、条約草案で一旦は締結国リストに加えた。
 けれども、日韓は戦っていないと英国が異を唱え、米国もならう。米国は《連合国共同宣言》への署名(42年)がないとも指摘したが、韓国は執拗に食い下がった。宣言参加国は47。全物的・人的資源を対枢軸国用戦力に充てる方針に同意していた。
 間の悪いことに、フィリピン独立準備政府や多くの亡命政府も参加していた上、連合国=United Nationsなる用語が宣言で正式採用された。交渉過程で韓国は、日本の講和条約締結を終始妨害し、島根県・竹島の韓国編入すら主張した。とどのつまり、韓国が得たのは在朝鮮半島の日本資産移管のみ。講和会議へのオブザーバー参加も拒絶された。
日本にカネを無心した抗日武装集団
 そもそも、日本だった朝鮮の人々は、欧州列強の植民地兵の如く人間の盾にされもせず、日本軍将兵として戦った。朝鮮人高級軍人の武勇に触発された朝鮮人が志願兵募集に殺到し、1942年と43年の募集各4000名/6000名に、25万5000人と30万人超が受験。競争倍率は63~50倍に達した。2万1000柱の朝鮮人英霊が靖国神社に祭られる。
 史実にひるむような韓国ではない。「あるべき理想史」に向け、韓国海軍の潜水艦名に祭り上げた《金佐鎮》の以下の物語に、韓国の情念を見る。
 滿洲東部~ロシア沿海州南西部は李氏朝鮮時代以降、朝鮮人が多数移住した。朝鮮&中国人匪賊・馬賊はここを根城に朝鮮半島北部の町村を襲撃、無辜の朝鮮人らの金品を略奪した。銀行券が奪われ日本領事館が焼き打ちに遭い女子供を含む13人が殺されるに至り、大日本帝國陸軍と中華民国軍が積極的掃討に乗り出す。匪賊・馬賊と共に帝國陸軍と戦ったのが、日韓併合に不満を持つ抗日武装集団・北路軍政署の頭目・金佐鎮(1889~1930年)だった。
 歴史上、金が登場する時間は1週間。韓国が“対日戦争”と言い張る《青山里戦闘》以外にない。金を英雄に仕立て、青山里戦闘を「大勝利」へと文字通り「導く」ため、韓国は歴史の粉飾を重ねた。日本側は複数の資料に彼我の損害を克明に記録。《戦死11(将校の戦死ナシ)・負傷24/敵側の戦死130・死傷90以上・逃亡200》とした。
 対する韓国側は帝國陸軍の被害を次第に誇張し始め、「戦死の加納信暉・聯隊長以下3300人殺傷」と言い出したが、ウソはあっけなくバレた。加納大佐は戦闘後の1922年まで聯隊長を務めていた。
 しかも「金佐鎮将軍」は30年、「日帝の指図を受けた朴尚實の凶弾で殉死した」ことにされる。だが、朴は《共産勢力に属した朝鮮人の元部下》で、日本とは無関係。逆に、追い詰められた金ら600人は武器・資金の欠乏で農民に転向せんと、資金援助を日本総領事に申し入れた。
 日本外務省は難色を示したが、お咎めナシ。暗殺するほどの大物ではなかった現実を裏付けるが、韓国は1991年以来、金の生家の聖域化事業を推進し、家屋や門を復元し展示館を建設。祠堂を含め2880坪を造成した。毎年「青山里戦闘全勝記念祭」を開いてもいる。
 韓国臨時政府も1940年、中華民国内で《韓国光復軍》を立ち上げる。韓国メディアは光復軍についてこう講釈する。
 《英軍と連合して1944年のインパール戦闘をはじめ、45年7月までミャンマー(ビルマ)各地で対日作戦を行った》
 実は、光復軍の動員計画は遅れ、創設1年目の兵力は300人。米CIA(中央情報局)の前身組織の協力下、朝鮮半島内で潜入破壊活動を考えたが、日本降伏が先になった。
 作家・池波正太郎によれば、剣客は真剣での立ち合いに敗れると、相手と10年後の勝負を契る。再び負ければさらに10年後と、勝って自信を取り戻すまで挑み続ける。でも、日韓関係は微妙に違う。日本と戦い独立を勝ち取ったのではなく、日本を負かした米国の進駐で棚ぼた式に日本統治の終わりを迎えた。従って、歴史を正視すると永久に自信は取り戻せない。取り戻そうと、歴史の粉飾・捏造を反復するが、なおも自信を得られない。かくして、屈折した負のスパイラルは永遠に続く。