【昭和天皇の87年】学習院の空気一変! 新院長、乃木希典の超厳格教育 - 産経ニュース

【昭和天皇の87年】学習院の空気一変! 新院長、乃木希典の超厳格教育

画=豊嶋哲志
質実剛健(1)
 学習院-。
 主に華族の子弟が学ぶ教育機関として明治10年に創立された、宮内省直轄の官立学校だ。華族中心ながら当時は武術、馬術など武課教育を重視しており、学習院の名称は明治天皇が定めた(※1)。
 この学習院の第10代院長に、明治天皇の意向で軍事参議官の乃木希典(まれすけ)が就任したのは明治40年1月、裕仁親王が入学する1年前である。
 明治天皇は詠んだ。
 いさをある 人を をしえの親にして
 おほしたてなむ やまとなでしこ(※2)
 乃木の院長就任により、学習院の空気は一変した。同校はその頃、柔弱華美の弊に流れていると批判されていたが、「(乃木院長が)明治四十年代の学習院に大きな影響を与え」たと、同校発行の「学習院百年史」に書かれている。
 乃木が学習院に持ち込んだのは、質実剛健、質素勤勉の気風だ。中・高等学科を全寮制にして自ら住み込み、生徒と寝食をともにし、「贅沢(ぜいたく)ほど人を馬鹿にするものはない」「寒い時は暑いと思ひ、暑い時は寒いと思へ」と訓示した。規律は厳格で、華族だろうと年少だろうと容赦はしない。
 院長就任後の40年4月4日の寒日、乃木は早速、皇孫仮御殿を訪れた。
 《学習院長乃木希典参殿につき、(裕仁親王は)雍仁(やすひと)親王と共にそれぞれ謁を賜う。乃木より、今日の様に寒い時や雪などが降って手のこごえる時などでも、運動をすればあたたかくなりますが、殿下はいかがでございますかと尋ねられ、ええ運動しますとお答えになる》(昭和天皇実録2巻17頁)
 裕仁親王は、火鉢にでも当たっていたのだろう。乃木は断然、外遊びを促した。学習院に入学する1年前からこの調子である。
 41年4月11日、学習院初等学科の入学式。約百人の新入生が整列する講堂の前列中央に、制服姿の裕仁親王がいた。
 開式後、乃木が厳かに教育勅語を奉読する。東京朝日新聞によれば、裕仁親王は教育勅語を「他の学生に劣らざる不動の姿勢もて終始整然と御直立」して聞いた。
 その健気(けなげ)な姿勢に、乃木は、将来の天皇の初等教育を担う自らの責任の重みを、再認識したに違いない。
× × ×
 ところで当時の学習院初等学科1学年は、東西2学級編成である。新入生となった裕仁親王は同学年の華頂宮(かちょうのみや)博忠王、久邇宮(くにのみや)邦久王とともに西組に所属した(※3)。クラスメートは12人。「華族以上ノ子弟ニシテ品行方正且家庭ノ正シキ者」から選ばれた。
 平日は4時限ないし5時限、土曜は3時限。時間割は以下の通りだ。
【月曜】(1)訓話または国語 (2)算術 (3)唱歌または遊戯 (4)国語 (5)手工
【火曜】(1)国語 (2)算術 (3)遊戯または唱歌 (4)国語
【水曜】(1)訓話 (2)算術 (3)図画 (4)国語 (5)唱歌または遊戯
【木曜】(1)国語 (2)算術 (3)遊戯または唱歌 (4)国語
【金曜】(1)訓話または国語 (2)算術 (3)国語 (4)唱歌または遊戯 (5)国語
【土曜】(1)算術 (2)遊戯または唱歌 (3)国語(※3)
 昭和天皇実録によれば、裕仁親王は毎朝8時前に馬車で登校し、《四時限の日は正午前に、五時限の日は午後二時前に御帰殿になる。(中略)御帰殿後は御学友が交代で出仕し、復習や運動・お遊びのお相手を勤める》(2巻70頁)のが日課である。
 ただ、1学年の11月以降は馬車をやめ、徒歩通学に切り替えた。質実剛健を重んじる乃木の方針だろう。
 裕仁親王は、そんな学校生活を楽しんだようだ。
 41年12月2日の昭和天皇実録には、《未明に御吐逆あり、御朝食後も御吐逆になる。しかるに授業御欠席を肯んぜられず、御登校を御懇望につき例刻登校されるも、二時限までの御学習にて御帰還になり、直ちに御仮床になる》(2巻97頁)との記述もある。
 もっとも低学年の頃は病弱気味で、冬季は避寒のため静岡県沼津や同県熱海などに長期滞在した。学友も同じ避寒先で過ごし、裕仁親王と机を並べた。弟の雍仁(やすひと)親王、宣仁親王も一緒だ。
 「ご健康第一ということで転地をなさったのだと思います。時々風邪をお引きになられたし、それ程お弱いというのではありませんでしたが、頑強なほうでもなかったのでしょう。(中略)沼津で殿下と私共が学んだ所は、現在も残っております沼津御用邸の東附属邸ですが、その東附属邸の一部に私どもも泊まっていたので、三殿下のお学友四人ずつ十二人全員が揃った頃は、かなり賑(にぎ)やかでした」と、学友の永積寅彦(のちの侍従次長)は述懐する。
 一方、乃木が直接授業を行うことはない。乃木の役目は、日々時々に発する訓示だ。その言葉の一つ一つが、裕仁親王に大きな影響を与えることになる--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
(※1)学習院の源流は幕末の弘化4(1847)年、京都御所の東側に設置された公家のための学問所で、孝明天皇が「学習院」の額を下賜した。維新後の明治10年、東京・神田錦町に華族の学校が創立された際、明治天皇は京都時代の名称を継承するよう勅諭し、「学習院」の名がついた。なお、神田錦町の校舎は明治19年の火災で焼失したため、23年に四谷に移転。中・高等学科は41年に高田村(現豊島区目白)に移転し、全寮制となった(初等学科と女学部はそのまま)。先の大戦後は宮内省から独立。私立学習院として現在に至っている。
(※2)御製の意味は、「勲功(いさを)のある人物を教育(をしえ=教え)の長として、皇国の子供たち(やまとなでしこ)を養い育てよう(おほしたてなむ=生し立てなむ)」
(※3)裕仁親王は2学年から東組所属で、遊戯がなくなって体操、綴方、書方の授業も行われた。4学年から地理が、5学年から歴史、理科、修身が追加された。
【参考・引用文献】
○宮内庁編集「昭和天皇実録」2巻
○学習院発行「学習院百年史 第一編」
○学習院輔仁会編「乃木院長記念録」(三光堂)
○永積寅彦著「昭和天皇と私」(神道文化会)