躍進を遂げた小池祐貴 火を付けたのは「日本最速の同い年」と「五輪入賞ジャンパー」との邂逅(かいこう)

日本スプリントの挑戦
ダイヤモンドリーグ第11戦の男子400メートルリレーで日本の第1走者を務めた小池祐貴=7月22日、ロンドン(ロイター=共同)

 レースを終えた小池祐貴(ANA)は腰に手を当て、場内スクリーンに視線を向けた。しばらくたたずんでから現実を受け止めるように、うつむいた。

 6月24日、日本陸上競技選手権男子200m決勝。リオデジャネイロ五輪代表の飯塚翔太(ミズノ)に敗れて2位、タイムは20秒42(追い風0・8m)の自己記録だったが、初の「日本一」には0秒08届かなかった。

 勝負の主導権を握ろうと前半から積極的に突っ込み、コーナーの出口ではトップに。ただ、前日までに100m3本と200m予選を走って疲労した体では、逃げ切ることができなかった。

 「最後は気合でと思っていたけど、さすがに持たなかったですね」

 しかめた顔に、わずかに浮かんだ充実感。翌25日、社会人1年目のスプリンターはジャカルタ・アジア大会の代表に選出された。

 野球からの転身「勝負できる競技で」

 4年前の2014年5月、関東学生対校が開催されていた埼玉・熊谷の競技場で、慶大の川合伸太郎監督は実にうれしそうだった。

 「面白いのが入ったよ。陸上経験3年で100mが10秒38。キャリアを積んでないから、伸びるのはこれからだ」

 北海道の進学校、立命館慶祥高から入学した小池のことだった。新入部員への言及は快活に続く。

 「おおらかで物おじしない。それによく考えている。研究熱心だよ。『何やっているんだ?』って聞くと、山県(亮太、当時慶大4年)は3つくらい答えが返ってくるけど、小池は5つくらい返ってくる。肩の動きとか。体の使い方を試行錯誤している」

 小池は小さい頃から「陸上の天才」だったわけではない。最初は野球少年だった。小学2年からボールとバットを握り、中学の野球部では投手で4番。チームの主軸として活躍し、他の大多数の中学生と同じように3年夏に部活動を引退した。

 「甲子園に行きたいと思って野球をやってたんですけど、本当に行きたいのかなって疑問を持ち始めて。一緒にやってた部員たちのことが好きで続けていて、『絶対に。かじりついてでも』という気持ちはないなと気付いたんです。それより全国大会に出たかったんだなって。それなら、勝負できるスポーツでいいんじゃないかって」

 チームスポーツは自分がどれだけ努力して上達しても勝てないことがある。「陸上競技は数字に出るというのが分かりやすい。良しあしが自分に返ってくる」。親しい友人の誘いもあって、高校では新たな挑戦に踏み出した。

 立命館慶祥高の陸上部には全国大会経験者がいた。いきなり素人が入れば怯みそうなものだ。そこで「この人たちに練習で勝てたら、全国で戦える」と前向きに捉えられるのが彼の強さだった。

 着実に力を付け、その名は北海道から全国へ。だが、栄冠までは最後の“壁”が厚かった。

 高校3年の13年インターハイは100m、200mとも2位。国体100m2位。日本ジュニア選手権200m2位-。

 いずれも優勝したのは同い年の桐生祥秀だった。

 京都・洛南高の桐生は、この年の4月、織田記念国際100mで当時日本歴代2位となる10秒01をマーク。規格外の成長を遂げていた。

 今、小池は苦笑いで振り返る。

 「あの織田記念の時、ちょうど練習が終わって携帯を見たらニュース速報が来て。10秒01って何かの間違いじゃないかと思いましたから」。

 高校記録が前年に桐生が出した10秒19だったのだから、そう思うのも無理はない。

 陸上を続けるか? やめるか?

 ノンフィクション作家、沢木耕太郎の作品に『三人の三塁手』という短編がある。ミスタープロ野球、長嶋茂雄と同時代に巨人の三塁手だった難波昭二郎と土屋正孝を追った物語だ。

 作品は長嶋の言葉から始まる。

 《勝者が笑うかげには、つねに敗者がいます。栄光のかげに、数知れぬ挫折があります》。

 日の当たる者と、そうでない者。太陽が強く輝けば輝くほど、その光が作り出す影は濃い。

 大学への進学にあたり、小池は迷っていた。

 「陸上をやめるか、続けるか」

 日本ジュニア選手権100mこそ優勝を飾ったが、このレースは桐生が欠場していた。もう一度、陸上に本気になれる環境を選ぶか、それとも北大を一般受験するか…。

 結果、慶大にAO入試で合格。競走部の門をたたいた。勝負の世界に踏みとどまったのは、満足していない自分から目をそらせなかったからだ。

 「桐生にガチで勝って終わりたい」

 大学の選手寮では、部の主将でロンドン五輪代表の山県亮太と同部屋になった。山県は以来、競技を突き詰めようとする後輩を気に掛けていた。

 小池が言う。

 「山県さんには『もうちょっとで、こっち側に来られるよ』と声を掛けてもらっていたんですけど、その『もうちょっと』が何なのか分からなくて、1人で練習してました」

 大学1年の14年世界ジュニア選手権は200m4位、桐生らと組んだ400mリレーで銀メダルを獲得した。15年には桐生が100mで追い風参考ながら9秒87という驚異的なタイムをたたき出したのを横目に「『また、やられたよ』と思いましたけど、突破口を開いてくれるのは、ああいう奴なんだと納得する部分もありました。開けた扉があるなら、入っていかないと。差は高校から広がる一方だけど、タイムを上げて、自分のポジションも上げていかないと」と決意を新たにした。

 模索の時間は続いていた。

 筋肉の部位を一つ一つ意識して追い込み、良い走りの時はどこを使えているか探ったり、走り幅跳びの部員の助走を参考にコンパクトなフォームに取り組んだり。後にケンブリッジ飛鳥(ナイキ)も加わる米国のクラブに短期留学したりもした。

 だが、故障もあって、なかなか国内シニアのトップ、世界の舞台は遠かった。

 「そんなんじゃ速くならないよ」

 転機は大学3年、16年の年末。1人の男性との出会いだった。臼井淳一。男子走り幅跳び元日本記録保持者である。

 川合監督の仲介もあって、慶大の日吉グラウンドに隣接する施設で、トレーニングを見てもらう機会があった。小池はどんな意識で、どんな練習をしてきて、今どうしているかを語った。

 すると、臼井は、あっさりこう言ったという。

 「そんなんじゃ速くならないよ」

 ベストを尽くしてきたつもりだった小池は驚いたが、腹が立つことはなかった。好奇心と向上心が上回ったからだ。

 「何かしら自分が知らないことがあるんだなと。臼井さんに質問すると、自信のある言葉がよどみなく返ってきた。分かるじゃないですか、『この人、嘘付いてないな』って。無理に言うことを聞かせようとしないし、見栄も張っていない。話を聞いていて、やっぱり、自分(の練習のポイント)がずれてるんだなって思って、それで『教えてください』となったんです」

 川合監督の言葉を借りれば、臼井は「スーパーマン」だ。

 走り幅跳びで1984年ロサンゼルス五輪7位入賞。これだけも偉業だが、すごみはその万能ぶりにもある。高校時代は三段跳びで全国大会を制し、400mで当時の高校記録をマークした。アジア大会は1600mリレーのメンバーとして78年、82年と連覇。78年大会は400mリレーも走って銀メダルを獲得している。

 引退後、臼井は30年近く会社員生活を送り、陸上の指導には携わっていなかった。

 「『トレーニング、考えてくれますか?』って言うから、じゃあ、やるだけやってみるかと。本人も悩んでたしね」とコーチを引き受けた経緯を淡々と振り返り、こう続ける。「今の選手全般に言えることだと思うけど、自分が優れている点というのは分かる。だけど、何が足りないか、なぜ伸び悩んでいるか分かっていない選手が多い。小池も自分のことをよく分かっていない。潜在能力はあるから、ちゃんと練習できれば、そこそこ記録は出るなと思いましたよ。ただ、短距離選手としてのベースが著しく低かった」

 競技の現場から長く離れていたとはいえ、臼井には自ら感じ、考え、結果を出してきた現役時代の知見がある。アスリートを見る目、洞察力はさび付いていなかった。

 すぐに小池は、それまで自分で組み立てていた練習メニューを臼井に委ねることにした。2人とも「お互いのことを、ほとんど知らなかった」と口をそろえるが、真っさらな気持ちで取り組むのに、それはプラスだったのかもしれない。

 日本歴代7位タイの20秒29

 臼井に師事して練習はどう変わったのか? この質問に答える小池の表情は自然と引き締まる。

 「ひたすら走り込みとウエート。内容は特別なことじゃないです。誰もがやっていることをしっかりやる。量が多くなりましたね。人の倍くらいやっているかな。量は変わったけど、学生の頃のようなむちゃくちゃな練習はしなくなった。その代わり、きつい練習を毎日にならして、やっている感じですね。倒れないし、けがもしない。けど、毎日つらい」

 そのうえで、小池と臼井が重視しているのが「感覚」だ。臼井は「どういう状態なのかは、その選手自身にしか分からない」と言い、小池はこう解説する。

 「メニューを考えてもらえるので、そのメニューを行うことだけに集中している。練習量をこなす中で感覚を鍛える。臼井さんのメニューは余計なことをすると、こなせない量と質なんですよ。設定のタイムを守りつつ、省エネで。ポイントを押さえた走りになる」

 基礎的な筋力や体力といった土台が徐々に上がり、かつ体のバランスも良くなった。同時に技術も洗練されていった。

 大学4年の17年日本学生対校200mで優勝。変貌の兆しが見え始めた18年シーズン開幕前、臼井は小池に、こう言った。

 「100mは10秒2台、200mは20秒2台が出るよ」

 果たして、4月の織田記念国際SEIKOチャレンジ100mで、いきなり10秒20(追い風1・4m)と4年ぶりに自己記録を更新。続く6月の日本選手権100mは山県、ケンブリッジ、桐生に次ぐ4位に食い込んだ。勝負に持ち込めるはずだという自信は緊張を生み、連日2時間ほどしか眠れず、走る前には体が震えたという。タイムは10秒17(追い風0・6m)と、またも自己記録。あの桐生に100分の1秒差と迫るレースだった。

 「高校の頃は絶対に勝てなくて、どうにか希望を自分の中で見いだして競技をしていたけど、今は持てる力を出せば勝負できる。その感覚と手応えは間違ってなかった」

 そして、7月にはベルギー・コルトレイクの競技会で20秒29(追い風0・7m)と得意の200mでも自己記録を塗り替えた。日本歴代7位タイという好タイムで、ついに桐生と山県の自己記録20秒41を上回ったのだ。

 臼井は小池の現状を、こう分析する。「やってきたことは間違ってないという安心感があるんじゃないですかね。まだまだですけど。大体、日本選手権で『寝れない』なんて。世界を狙うのに、日本選手権は勝つのが当たり前」。80年モスクワから88年ソウルまで3大会連続で五輪代表に選ばれた、かつての名選手は目線を上げさせることを忘れない。

 7月、ロンドンで行われた世界最高峰シリーズ「ダイヤモンドリーグ」に小池は初めて出場し、400mリレーと200mを走った。

 「桐生と世界ジュニア以来、久々に同じリレーチームになった。こういうレベルでやってるんだなとか、上のレベルでリレーを組むのは、こういう雰囲気なんだなとか。彼は高校3年から、これをやってるんだなとかいろいろと感じました」

 同学年のライバルを語る言葉には、現実を真っすぐ見据える真(しん)摯(し)な響きがある。

 23歳のキャリアには、もっと上がある。きしんでいた歯車は今、がっちりかみ合い、回り始めたばっかりだ。(運動部 宝田将志)